行程2日目>津軽半島レイライン探訪



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青森市内、朝の散歩


■6:03

宿泊した「アップルパレス青森」。

ホテルを出て、朝の散歩に行く。


■6:07

懐かしい日活映画の看板。



■6:22 陸奥湾内に面した浜町緑地から眺めた朝日。



■6:22 同じく、浜町緑地から眺めた津軽半島。


■6:49

ホテルで朝食を摂る。

なかなか豪華だ。


大平山元遺跡


■8:07

今日は「旅のはじめに」に記したように、「津軽半島のレイライン」を巡ろう。

いつもより早めにホテルを出、国道280号線を走る。立派なバイパスが出来ていたのに驚く。

津軽線の踏切で、貨物列車の通過を待つ。


■8:15

今日の最初の見学地は、世界遺産の「大平山元遺跡」だ。

大平山元遺跡は、青森県東津軽郡外ヶ浜町にある、今から1万5千年前の旧石器時代終末期から縄文時代草創期の遺跡。


■8:16

訪問日は11月1日(火)だった。

外ヶ浜町のWebサイトに
令和4年10月17日(月)~11月末まで、大平山元遺跡の園路の舗装工事がございます。安全のため立ち入りはご遠慮ください。
と書かれていた。



■8:16 工事責任者に撮影の許可を得、急ぎシャツターを押す。



■8:16  大平山元遺跡案内板と土器の破片のレプリカが、発掘当時の様子を伝えている。


■8:18

こちらは、駐車場脇に建てられた案内所。


外ヶ浜町大山ふるさと資料館


■8:21

大平山元遺跡の発掘遺物は、500メートルほど離れた「大山ふるさと資料館」に展示されている。

案内板には、年表や発掘された石器群の写真の他遺跡の整備完成イラストなどが載っている。


■8:21

大山ふるさと資料館は、旧蟹田町立大山小学校の校舎を利用した資料館。


■8:22

開館時間は9時なので、残念ながら閉まっていた。


■「1万5千年以上前の無文土器片」

土器片に付着していた炭化物を分析し、今から約1万5千年以上前に使われたことが判明。


・・・外ヶ浜町のWebサイトから写真を借用。


今泉賽の河原


■8:40

十三湖に面した「吉田松陰遊賞之碑」の駐車場に駐車して、「今泉賽の河原」を見学しよう。

イタコといえば恐山が有名だが、イタコのルーツは今泉賽の河原であり、その後金木川倉地蔵尊、恐山と繋がっていく。



■8:40 入口に置かれた2つの大石。磐座信仰の縄文からの流れを感じる。



■8:42 ポツンと「地蔵堂」が建っていた。明治時代初期に土中から木造の地蔵尊像が発掘され、この地蔵堂が再建され33体の地蔵尊など随時境内が整備された。



■8:42 物寂しい場所だ。「ふうみん」は、縄文の遺物を多数見て来たが「祭祀遺物」の多い事に気が付いた。

縄文時代からの霊媒(イタコ)や占い(ゴミソ)や祈祷(オシラサマ)が脈々と繋がり、この津軽半島のレイライン近くにあるのはその証左と考える。



■8:45 吉田松陰遊賞之碑から眺めた十三湖と岩木山。吉田松陰が嘉永5年(1852年)3月4日に訪れた地で、波穏やかな十三湖と遥に霞む岩木山の絶景にしばし足をとどめたという。


神明宮:アラハバキ神社


■9:05

「神明宮」は、かつては「荒吐(アラハバキ)神社」あるいは「長髄神社」と称した。

そして、ここには縄文時代前期から中期にかけての「オセドウ貝塚遺跡」がある。

1923年に発掘調査が行われ、2メートルの全身人骨が出土した。この人骨はナガスネヒコとの説がある。


■9:06

参道の階段を登っていくと、途中に大石の入った社があった。


■9:06

右側の社には大石が2つ。

先ほどの今泉賽の河原を想起させる。


■9:06

左側の社に刻まれた年代は新しい。

しかし、使用している石はオセドウ貝塚遺跡の石かもしれないな?



■9:07  拝殿に向かう。荒覇吐神(アラハバキノカミ)とは、元々は主神だったが、客人神(まろうどかみ)になったと云われる謎の神。「荒覇吐」「荒脛巾」「荒吐」「荒波々幾」などと表記される。なお、拝殿の裏側の森はオセドウ遺跡公園となっていまる。



■9:10 参道の木には、「虫おくりの龍神」が大小2体。龍神=ナーガであり、古代のインド・中国との関連性を感じる。


山王坊日吉神社


■9:15

国道339号線沿いの「山王坊日吉神社」の異形な鳥居を見た、四半世紀前に驚いた記憶がある。

この鳥居は山王鳥居(合掌鳥居)の一種だが、最上部に笠木のある二重鳥居は全国的にも珍しいものだという。

鳥居の高さ11メートル、幅は12メートルで、木造の鳥居としては厳島神社、明治神宮に次ぐ国内3番目の大きさだ。


■9:19

国道から1キロ程入り、駐車場に車を停める。

参道を少し歩くと、神域の入口に建つ山王鳥居に出会う。



■9:21 「ふうみん」は四半世紀前に何度か訪れた事があるが、その度に冷気というか神秘的で不思議な空気感にとらわれた場所だ。ただし、今回は残念ながらその感じはなかった。



■9:23 奥院に続く参道もいい雰囲気だ。昭和57年の発掘調査で、神社仏閣の礎石跡や十三湊の繁栄と同じくする室町期の遺物が出土しており、安藤(東)氏が勧請した神仏習合の宗教施設と考えられている。



■9:24 石段の上の奥院は、新しく再建されたようだ。以前には無かったと思う。


■9:24

発掘された大石には「山神」と彫られていた。

右脇に置かれた石たちにも興味が沸く。


■山王坊遺跡建物配置図

この奥院跡近くに「磐座」がある。

という事は、縄文時代からこの場所は聖地となっていたとも考えられる。


大沼公園


■9:35

続いて「大沼公園」に来た。

ここは、縄文の「大沼遺跡」がある。



■9:39 この沼は別名で佐称宇知沼、白太鼓沼と呼ぶ。北岸一帯には、縄文時代・古代の竪穴住居群が知られている。沼には、日本一長い屋根付木橋の東日流館橋(つがるやかたばし)が架けられている。


唐川城跡展望台


■9:54

「唐川城跡」は、標高約120メートルの山岳地帯に位置し、四方が断崖と谷になっている天然の地形を利用した中世の山城跡。

この展望台は、その山の中腹に設けられた「唐川城跡展望台」。



■9:54 手前に市営の牧場、そして十三湖に浮かぶような岩木山を眺められる絶景スポットだ。


■9:55

手前に大沼公園と東日流館橋。

真ん中には、中島と遊歩道橋。

その先に十三湖大橋と日本海。

素晴らしい景色を堪能する。


洗磯崎神社



■10:06 国道339号線を走り、洗磯崎神社に向かう。その途中、きれいな三角形の「靄山(もややま)」に出会う。ここには後ほど訪問しよう。


■10:11

「洗磯崎神社」に到着。


■10:11

御由緒

安倍、安東氏の祖神である荒吐神を祀った神社であるといわれている。

文永11年(1274年)、天台宗僧賢正坊により薬師堂が建立されたと伝えられている。

・・・この「アラハバキ神」には、とても興味がわきますネ。


■10:12

三の鳥居から拝殿を望む。


■10:12

拝殿の裏にある本殿の中は、鍵がかかり見る事は出来なかった。

見た人によるとご神体は大石で、靄山を表しているという。


■10:12

奥殿の裏には、大石が2つ。

「今泉賽の河原」、「神明宮」と同じだ。

何を表しているのかな?男と女、太陽と月なのか?



■10:14 龍の形をした松が素晴らしい。



■10:14 洗磯崎神社から眺めた靄山。ここから眺める山容は、ご神体の石に似ているという。



■10:14 遠くに岩木山を望む。


■10:15

洗磯崎神社の道路を挟んで反対側には、これもきれいな三角山がある。

「不動山」といい、頂上に「軻遇突智神社」が祀られている。


靄山(もややま)



■10:21 「ふうみん」は旅のはじめにも記したが、「靄山(もややま)」は人工的に成形した古代のピラミッドではないかと思った。

「津軽古代王国の謎」の著者佐藤有文氏は次の通り記す。
問題のモヤ山は標高152メートル。平地からの高さは約100メートルにすぎないが、熊野宮のすぐ北側にそびえ立っていることから、山岳信仰の対象となったご神体の霊山なのだろうか。

このモヤ山全体は山麓地帯から山頂まで、砂地と黒土・小さな岩石片だけで構成されていることは、明らかに人工的に築かれたピラミッド型の霊山といえる。

市浦村歴史民俗資料館館長の葛西安十郎は「何度か山を削ったことがあった。ところが土盛りが軟らかくて、掘っても彫っても土質が同じ土質なんです。それで人工の山ではないかといわれるようになった」と語った。


■10:21

靄山は岩木山と深い繋がりがあり、靄山は脇元岩木山と呼ばれている。

登山道の入口に説明板がある。


■10:22

靄山の説明板。


■10:22

時間がないので、頂上への登山はあきらめる。



■10:24 紅葉の靄山をもう一度眺める。その昔、岩木山(1625メートル)と靄山が背伸び競争をしたという。岩木山はどんどん高くなっていったが、靄山は人に見られたので、背が伸びなくなったとか・・・そんな伝説が今に残る。


熊野宮


■10:33

佐藤有文氏によると、この正面に靄山と兄弟分の形の「三角山」があったという。

しかし、今では山腹の大部分が削られてしまい、昔の面影は無くなった。

「ふうみん」は、右側の「熊野宮」へ向かう。


■10:36

熊野宮の鳥居の横に車を停める。


■10:37

参道を歩いて行くと、二の鳥居と拝殿が見えた。


■10:37

説明版

熊野宮
建仁2年(1214年)安部貞李が紀州那智の熊野権現の分霊を祀った宮といわれる。憤館の守護神として崇められた。

憤館
寿永2年(1183年)5月3日安部氏李は望湖山神護寺を開山し立ち入れ禁断の秘寺とした。


■10:38

拝殿の内部。


■10:39

山神を祀った社があった。


五月女萢遺跡



■10:55 「五月女萢(そとめやち)遺跡」は、縄紋時代晩期を中心とする遺跡。遺跡は、環状の大型墓地で、埋葬儀礼に用いたと推測される土器から、精巧な人面を表現した浅鉢形の縄紋土器(人面付き浅鉢形土器)が見つかった。


■10:55

五月女萢遺跡の「五月女萢」を、そとめやちとは読めませんでした。

五月女萢(そとめやち)とは、十三湖北岸辺りの地名で、「そとめ」とは津軽の方言でアヤメ科の植物のことをいう。

この辺り一帯が、アヤメの群落が広がる低湿地だったことに由来しているらしい。


■10:55

説明版の写真。

道路跡や埋葬人骨。


市浦歴史民俗資料館


■11:03

「市浦歴史民俗資料館」へは、この中島遊歩道橋を渡って行く。


■11:08

「市浦歴史民俗資料館」に入館。


■11:09

先ほど見学した神明宮の裏に、縄文時代前期から中期にかけての「オセドウ貝塚遺跡」がある。

発掘された2メートルの全身人骨と出土した円筒土器の写真が展示されていた。



■11:10 献用土器 五月女萢遺跡出土。



■11:11 蓋および土版 いづれも、岩井・大沼遺跡出土 縄文時代晩期末葉。


■11:14

先ほど見学した、山王坊遺跡出土の聖観音像懸仏(かけぼとけ)が展示されていた。


■11:20

「ふうみん」は、この資料館で、五月女萢遺跡出土の左記写真の「人面付き浅鉢形土器」を見たかった。

当然、この博物館に展示されているものだと思い込んでいたが、その展示はない。

受付の女の子に聞いても、全く要領を得ず、断念する。


十三湊遺跡



■11:35 「十三湊遺跡」。東日流外三郡誌によれば、興国元年(1340年)の大津波によって十三湊は壊滅的被害を受け、これによって安東氏の政権は崩壊したという。しかしながら、発掘調査でこの時期における津波の痕跡は検出されておらず、同書を偽書と断じている根拠の一つとなっている。

しかし、弘前大学の発掘調査により、正確な年代こそ不詳ながら、十三湊を襲った津波の痕跡であろう泥の堆積が2層以上確認されているという。


浜の明神



■11:40 「浜の明神」。佐藤有文氏はレイライン上の浜の明神を、津軽古代王国時代に遮光器土偶像が日神・月神として、この浜明神に祀られていたという。


■11:41

説明版

浜の明神は、中世に貿易港として興隆した十三湊の水戸口に航海の守護神として鎮座していた。

文久3年(1863年)には、湊明神宮境内から119体の仏像や土台石等が出土している。


■11:41

五所川原市史跡案内略図。


■11:42

階段を登ると新しい拝殿がある。


■11:42

拝殿内部。

浜の明神は、その場所から灯台の機能も果たしていたと考えられている。

現在の祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命とされている。


中泊町博物館


■12:14

目的のレイライン巡りから少しそれるが「中泊町博物館」を見学しよう。



■12:17 立派な建物であり、期待して入館したが、縄文関係の展示は少ない。



■12:18 左:土面(複製)。 羽黒平遺跡 縄文時代晩期  右:けつ状耳飾(複製)。 三内丸山遺跡 縄文時代晩期


■12:18

北海道堂林遺跡出土資料を標識とする土器。

堂林式土器 深鉢。

深郷田遺跡
縄文時代後期


■12:24

板状土偶。

深郷田遺跡
縄文時代中期


ピュアレストラン


■12:36

中泊町特産物直売所ピュアにある「ピュアレストラン」で昼食を摂ろう。


■12:38

お目当ては、この「中泊メバル膳」だ。

しかし、今日は提供していないという。

何で?と聞いたら、このところメバルが全く入荷しないとの事。


■12:46

仕方がない「しじみラーメン」を注文。

スープが大変美味しく満足した。


田小屋野貝塚


■13:29

世界遺産の「田小屋野貝塚」に到着。

この車のイラストがカワイイと「yayo」。



■13:29 駐車場の横では、発掘作業が進められていた。



■13:30 田小屋野貝塚は、縄文時代前期から中期(約6000~4000年前)を中心とした遺跡。遺跡は台地上に立地し、ヤマトシジミなどの貝殻が堆積してできた貝塚が点在している。



■13:30 発掘当時の写真パネルが設置されていた。



■13:31 この遺跡はただの原っぱで、想像力を働かさないと面白くないだろう。


亀ヶ岡遺跡



■13:35 世界遺産の「亀ヶ岡石器時代遺跡」は、田小屋野貝塚から数百メートル南に位置し、「しゃこちゃん石像」に久しぶりに出会う。

「遮光器土偶」で有名なこの遺跡は、縄文時代晩期の集落遺跡であるから、この名称の「石器時代」は全くの間違いである。何故、訂正しないのだろうか?



■13:37 今回、しゃこちゃんが発掘された像の裏手にある「雷電宮」を見学したい。その雷電宮の裏側には、イラストが描かれた看板が設置されていた。



■13:39 この雷電宮の近くから、かの有名な「遮光器土偶」が発掘された。明治20年の発掘時、杉の木を倒したところ、その根っこに沢山の土偶や土器が絡まっていたという。


■13:39

亀ヶ岡遺跡の周辺には、このような発掘当時の説明版がいくつも建てられていた。


亀ヶ岡考古資料室


■13:55

「亀ヶ岡考古資料室」は亀ヶ岡遺跡から数キロ離れた、辺鄙な場所にある。

亀ヶ岡遺跡が世界遺産に登録されたことにより、亀ヶ岡遺跡は三内丸山遺跡のように整備がされ、この亀ヶ岡考古資料室も移設されるという。


■13:56

つがる市には3か所の資料館がある。

・亀ヶ岡考古資料室
・縄文住居展示資料館カルコ
・森田歴史民俗資料館

カルコは、施設改修工事ため休館中で、森田歴史民俗資料館は、月・火・木・金曜日は休館日だ。今日は火曜日の為見学できない。

休館中のカルコから出張中の遮光器土偶。

本物は東京国立博物館にあり、これはレプリカだ。


■13:58

頭のない遮光器土偶。

頭があれば、国宝級なのに残念だ。

この土偶は、亀ヶ岡遺跡の北側の低湿地近江野沢から出土した縄文時代晩期のもの。


■13:58

横たわる遮光器土偶を足元からパチリ。


■13:59

個人寄託品の土偶の表情も興味をひく。



■13:59 赤漆塗り壺型土器。



■14:02 先ほど見学した、田小屋野貝塚遺跡の展示コーナーがあった。


石神神社



■14:29 前述したように、縄文住居展示資料館カルコも森田歴史民俗資料館も見学出来ないので、一路岩木山山麓の遺跡や神社に向かう。


■14:45

「石神神社」は、創建年代は不詳であるが、 安永、 文化、 安政年間に再興及び再建との事。


■14:47

石神神社の境内には、黒松1本、セン(ハリギリ)2本は、ともに樹齢300年以上とされる。


■14:47

拝殿には、海の神住吉三神を祀られている。


■14:49

本殿には、大きな自然石が御神体として祀られているというが、扉が閉じており見られず。



■14:49 拝殿と本殿をぐるりと囲む猿田彦命、庚申様、月読命の石碑。すぐ近くに餅ノ沢遺跡があるので、これらの石碑は、縄文時代の物を転用したのだろう。


餅ノ沢遺跡


■14:54

「餅ノ沢遺跡」は、縄文時代前期後半から後期前半にかけての遺跡。

ここから100点の十字形の板状土偶が主体で発掘されたが、完全なものはなくどこかが欠けていた。

発掘当時の様子をガラス越しに見学できる。


■14:54

この近くから、三内丸山遺跡の大型竪穴住居にも匹敵する巨大な住居跡が見つかったという。

その住居跡は、長さ32メートル、幅12メートルという大きさだったというが、現在は道路の下との事。



■14:55 ガラスの内側は温度差による水滴で良く見えなかったが、3基の石棺墓が発掘されたまま展示されていた。立てかけられた石は、先ほどの石神神社の拝殿周りの石碑と同じように見えた。


巌鬼山神社



■15:12 「巌鬼山(がんきさん)神社」は創建796年で、その後の807年に坂上田村麻呂により再建されたという。津軽国一宮・岩木山神社の元社である。

元来、岩木山山頂の奥宮に対する下宮であったが、寛治5年に当地から百沢へ遷座したのが、今の岩木山神社という。岩木山の3の峰のうちのひとつは「巌鬼山」と呼ばれている。



■15:14 岩木山神社の境内は、古社らしい静謐な雰囲気が漂っている。


■15:15

県重宝に指定されている、巌鬼山神社の本殿と大杉2本。


■15:16

県の天然記念物に指定されている大杉。

高さは41メートルを超える巨大なもので、樹齢千年以上と推測される。

青森県内にはこの大杉に勝る無く、神社の長い歴史を物語っている。


■15:16

拝殿には日の丸が飾ってあった。


■15:17

本殿は、棟札によって元禄4年(1691年)の建築年代が確認できる遺構。

近世津軽の小仏堂が神社となった典型的なものという。

本殿・厨子ともに、細部の様式などに時代の特徴をよく示している。


大森勝山遺跡


■15:41

世界遺産の「大森勝山遺跡」に着いたが、途中の道がわかりづらかった。運転には要注意だ。

大森勝山遺跡は、今から約3000年前の縄文時代晩期の環状列石(ストーンサークル)が発見された遺跡。


■15:41

遺跡のストーンサークルは、この先の高台の上にある。


■15:47

大森勝山遺跡と岩木山。

夕日が当たる岩木山をバックにして、この大森勝山遺跡を撮りたかったが曇っていて残念だ。

冬至の日には、大森勝山遺跡から岩木山山頂へ沈む夕日が見られる。

冬至に太陽が岩木山山頂へと沈む地点と、ストーンサークルを結ぶ直線上に大型竪穴建物を配置したのは、天文学的知識があったからだという。



■15:53 大森勝山遺跡は防風林や自然林等に囲まれており、縄文時代を彷彿とさせる国内屈指の遺跡景観を有しているのは、この遺跡の魅力の一つだろう。



■15:55 大森勝山遺跡は77基の組石で構成され、長径(南西-北東方向)48.5メートル、短径39.1メートルの楕円形となっている。組石の置き方などもとても珍しく、貴重なものとされている。なお、遺構は埋め戻されている。


大石神社


■16:08

「大石神社」の鳥居。

この鳥居の柱には、真紅と漆黒の二匹の龍が巻き付いているというが、冬支度の為かブルーシートで覆われていた。


■16:08

大石神社の右の道を岩木山方面へ進むと、そこは異界への入り口だ。

赤倉山神社があり、その先は、「赤倉霊場」として、多くのお堂やお宮が散在している。



■16:08 朱の鳥居の参道を行く。この地に大石信仰が高まり、慶長17年(1612年)に津軽信枚公が赤倉山祈願所として、大石明神(十一面観音)を勧請したことに始まるとされる。



■16:09 拝殿の周りには、奉納された多数の神馬舎が並ぶ。拝殿はシャッターで閉じられていた。



■16:13 本殿は石で囲まれており、ご神体の大石が鎮座している。



■16:13 大石は2つあり、前の石には文字が刻まれているが塀の外からでは読めない。後ろの石は苔むしていた。この大石は、岩木山登拝口の赤倉山霊界との境界石とも言われている。

大石が2つあるのは、今日巡って来た神社と共通であり、古代の磐座信仰によるものだろう。


岩木山神社



■16:34 この時期の日没は4時半、ぎりぎりに「岩木山神社」に到着した。参道には、すでに灯りがともされていた。

岩木山神社は、創建からおよそ1200余年の歴史を持っていおり、780年に岩木山の山頂に社殿を造営したのが起源とされている。



■16:35 岩木山神社のご祭神は「岩木山三所大権現」と称されている。それぞれの祭神とその本地仏が岩木山の三峰に対して、仏教の三身に通じてあてられていて、お山自体が御神体として崇められていた。

向かって
・(左)鳥海山・・・「薬師如来」
・(中)岩木山・・・「阿弥陀如来」
・(右)巌鬼山・・・「観世音菩薩」
となっている。


森山


■16:40

今日の最後の見学地は、標高403メートルの「森山」だ。

この森山と靄山を結んだ線が、佐藤有文氏のいう「津軽半島のレイライン」の起点となる。

岩木山の南側にある森山は、疑似岩木山に見立てて信仰された。

中腹には創建寛治5年(1091年)の守山神社がある。


郷土ダイニング鮪山(しびやま)


■18:54

5時過ぎに「津軽の宿 弘前屋」にチェックイン。

歩いてすぐの「郷土ダイニング鮪山(しびやま)」で夕食を摂る。

津軽塗の皿に盛られたお刺身の盛り合わせ。

量は少なく見えるが、刺身はぎっしりと詰まっており、店名のマグロは絶品だった。


■18:57

黒石豆腐にもろきゅう。


■19:09

この牛肉がすごく美味しいと「yayo」はご満悦。


■19:12

マグロのカマ焼き。


その他も頼み満足の味だったが、「yayo」が注文した「水」に料金を取られたのには驚いた。

ここは、日本ですぞ!




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