■王道のルート
王都のアンコールトムから伸びる王道のルートは、全部で5街道が確認されている。北はラオス、東はベトナム、西はタイに延びている。(カンボジアのアンコール王朝時代の王道と橋梁と宿駅に関する総合学術調査より)
ルートA |
アンコールから、北西(シソフォン)、ロッブリー、ムアンシン方面 |
ルートB |
アンコールから、ピマーイ、シーテープ、スコータイ方面 |
ルートC |
アンコールから、コーケー、プリアビヒヤ、ワットプー方面 |
ルートD |
アンコールから、大プリアカーン、サンボールプレイクック方面 |
ルートE |
アンコールから、プノンペン、アンコールボレイ、オケオ方面 |
■ルートの現状
・ルートA、C、Dについてのカンボジア内の踏査は進んでいるが、長年に渡る自然の中にあって蜜林化した。
・ルートBについては未着手。
・ルートEについてはほとんどの部分が国道6号線と重なっている。
王道の現状は、全体としてシェムリアップから、東方部は西方部に比べ保全状況がよい。
これは、1431年の統一アンコール王国崩壊後、西方部分をシャムに占領され、1907年からのフランスによる植民地時代、シャムからカンボジアに支配権が替わったことが関係していると考えられる。 |
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ジャヤヴァルマン7世
(1130年~1218年)
在位:1181年~1218年
アンコール王朝20代国王 |
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宿駅について
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宿駅の Ta Muan 遺跡 タイ、スリン県 |
■宿駅の呼び方
ルイ・フィノ(Louis Finot)は、Dharmasala(ダルマシャーラー・慈善施設の意味)と呼んだ。
House of Fire(炎の家)とも呼ばれ、これは旅人が王道上で立ち寄る「灯明のある家」の意味であり、ラテライトと砂岩造りの祠堂であった。その、棟続きにはいくつかの木造家屋が建っており、軍隊や官吏・商人・村人が宿泊していた。なお、聖火を灯すことはクメール寺院では重要な儀式であり、そのために番人が配属されていた。
碑文による往時の名称は、Akni Guriha(サンスクリット語で灯明のある家)であり、現在カンボジアでは Sala Somnak(宿駅)と呼んでいる。
周達観の「真臘風土記」では、「大路上にはそこに休息の場所がある。郵亭(宿駅)のごとし」と記されている。
■宿駅の存在数
ブリアカーン碑文(1191年)によると、ダルマシャーラー(仏法の家)が国内の幹線道路に沿って121ヶ所存在した。これらの宿駅の配置を調べてみると、国内の北部地方に多く見られ、南部地方は少ない。何故なのだろう?
・アンコールからチャンパの首都の間に57棟。
・アンコールからピマーイ間に17棟。
・アンコールからプノンチソールに向い、戻る間に44棟。
・プノンチソールに1棟。
・不明2棟。
・計121棟。
これらの宿駅は、現在約50ヶ所(25ヶ所の説もある)の所在位置が判明している。ピマーイへの約300キロの沿道にある17棟のうち、カンボジアで7棟、タイで8棟の計15棟が確認され、これらの間隔は11キロから20キロ間隔(徒歩3~5時間)で設けられている。
■宿駅はジャヤヴァルマン7世の建設か?
宿駅はジャヤヴァルマン7世が整備したが、11世紀のサドックコックトム碑文(119節)に「道中には、旅人のための宿と貯水池がある」と記されているので、ジャヤヴァルマン7世以前にも宿駅があったと思われるので、全てがジャヤヴァルマン7世の建設とはいえないと考える。
転用材が多用に使用されているものもあり、ジャヤヴァルマン7世が建造時に周辺の建物から転用したと思われる。
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■宿駅の構造
現存する宿駅は、ラテライトや砂岩の組積造(建材を積み上げて外壁・内壁といった壁面をつくり、壁によって屋根・天井などの上部構造物を支える)で、他の寺院には見られない独得の形状をしている。高窓があることを共通点に、経蔵の発展形との説もある。
宿駅は塔状の建物に細長い拝殿が付属した単体の建物で、原則的に東を向いている。また、東西2方面に扉口を開き、南側の壁面に5つの窓を設けている。東面する宿駅が王道の北側に配置された事により、窓が王道に面した南側に設けられたと考えられている。
この南側の王道に面した窓は役所の窓口の役割を果たし、宗教と実務的なものが一緒になっていたと考えられる。礼拝と執務の空間が一緒の建物にあった形式は、カンボジア以外でも古代ではよく見られるという。
バイヨンの南面の宿駅と思われる情景の場面のレリーフから、現存する建物は道中の無事を祈る場であり、宿泊場所は近くに木造建築であった可能性が指摘されている。
■掲示板にバンコク探険ノートの Shinji さんからの投稿です。
[911] Shinji 2007/08/20 20:55:26
アンコールとピーマイを結ぶ「王道」を調査しているタイ・カンボジアの合同プロジェクト(2005年発足)があるんですが、その調査結果(中間発表)が8月18日のバンコクポストで紹介されました。Ta Muan 遺跡の南側に新たに Prasat Chan、Kok Phnov、Ampil という3遺跡が確認され、「王道の Ta Muan 通過説」が有力になったそうです。
王道を辿って Ta Muan からダンレック山脈を南下してカンボジア平原に達する散策路(標高差100m)が整備されれば観光目玉になりそうですが、残存地雷の除去はテクニカルな問題としても国境線の画定は相当揉めそうなので、当分の間は実現しそうもないです。あるいはカンボジア側からは、適切なガイドを雇って Prasat Chan まで行く事は容易になるとは思いますが。
地雷のおかげで乱開発を免れてきたこのエリアですが、今後は観光の為に森林が切り開かれて静寂が失われるのかと思うと、心中穏やかでないものがあります。 |
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バンコクポスト紙より |
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施療院について |
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施療院の Ta Muan Toct 遺跡 タイ、スリン県 |
■施療院の呼び方
ルイ・フィノ(Louis Finot)は、Bhaishajyaguru(治癒の神)に捧げられた建物と呼んだ。
Arogayasala(アーロギャーシャーラ、病院の家)又はKuti Ruesi 、Kuti Rishi(クティルースィー、サンスクリット語で仙人の小屋)と呼ばれる。地域の怪我人や病人、心と体のケアを必要とするための施設で、施療院は病人が入院できる「病院」か「診療所」だったかは判明しない。
この種類の建造物の特徴は Phra Bhaishajyaguru Vaithourayaprapha ヴイシャジュヤグラ(癒し手であることを示す水の入った器を持った瞑想姿勢の仏像)が奥に収められている。
施療院は、砂岩やラテライトの建物が残っており、礼拝をした祠堂や経蔵と考えられる。しかし、治療を施したと思われる建物は木造建築だったと思われるが、現在残っていない。
■施療院の存在数
タプローム碑文(1186年)の117節によると、ジャヤヴァルマン7世は領土内の整備の一環として各地に施療院を配置した。国内に102ヶ所の施療院(アーロギャーシャーラ)、文字通り「病院の家」があった。現在そのうちの33ヶ所の所在位置が判明している。内訳はカンボジアに18棟、タイに15棟。
施療院から、規則に関するサンスクリット語碑文が20ヶ所見つかり、どのように機能していたか把握できる。
ピマーイ碑文から、施療院は4区分に別れ、第一の区分の施設はアンコールトム都城の近くの4施設で従事していた人数は約200人、第二の区分の施設は第一の区分に準ずる。第三の区分の従業員は98名、第四の区分の従業員は50名だった。
施療院に対し、王は年3回にわたり、36種類の薬石・薬草を供与していた。
イサーンにおける施療院の現存遺構は19棟確認されている。その分布は広範囲にわたっているが、アンコール、ピマーイ間の王道周辺に5棟確認されている。
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■施療院の構造
施療院は主祠堂、経蔵?、塔門、周壁、バライからなる小規模の伽藍である。伽藍は東面し、主軸上には塔門、主祠堂が位置し、塔門から低い周壁がまわる。主祠堂と塔門の間には経蔵?が配置され、伽藍の北東側にはラテライトで護岸されたバライが設けられている。
これらの構成は、施療院とみなされる遺構の典型的な構成である。主材料はラテライトだが主祠堂の一部には砂岩が用いられている。主祠堂や塔門の前面にはテラスが設けられ、一部に木造建物の存在を示す痕跡も見られた事から、施療のための建物は敷地内の別の木造建築だったと考えられる。
また、伽藍の主軸を北側に寄せて主軸に対して南側を広くした事例や、祠堂や経蔵?の南側だけ窓を設けた事例などがある。南側に窓を設ける手法は宿駅と共通しており、王道との関連がうかがえる。
*経蔵?…一般的に「経蔵」といわれているが、聖水を流すソーマスートラを設けた事例(Ban Khok Mueang)もあるために、現時点で「経蔵」と断定はできない。 |
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「経蔵」と言われる建物について |
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■「経蔵」と言われる建物について(1)
他項の「王道・宿駅・施療院について」の中で、施療院の伽藍の中の長四角の建造物を、一般的に「経蔵」と言われているが、聖水を流すソーマスートラを設けた事例(Ban Khok Mueang)もあるために、現時点で「経蔵」と断定はできないと書いた。
メインサイトの「イサーンの大地走行2000キロプラス」の掲示板に、「タイ クメール遺跡を探し求めて」の運営者 T.I. さんから下記の投稿があった。
Kuti Rushi Ban Khok Muang の北側側壁部を大きく撮った写真をUPします。
見にくいかもしれませんが、側壁に直角に中央が溝のようになったラテライト石が横たわっています。すっかり忘れ去っていましたが、この石は何なのか?疑問に思ったような記憶があります。
もしかしたら、これが Somasutra だったのかもしれません。 |
…そこで、「経蔵」と呼ばれる建物について調べて見た。
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「タイ クメール遺跡を探し求めて」のサイトより、Ban Khok Mueang |
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■「経蔵」と言われる建物について(2)
クメール遺跡の中で「経蔵」と言われる建物がある。シェムリアップのアンコール遺跡のカンボジア人ガイドは、Library(ライブラリー・図書館)と説明する。
「経蔵」とは、その内部に経典などを納められていた建物と説明されるが、本当にそうだったのか?素人の「ふうみん」が見ても疑問だらけだ。やはり専門家も、本来建物が有していた機能に未解明な点が多く、「経蔵」の機能と建物の機能が合致していないと言う。
・この「経蔵」の名の由来
1911年、ジョルジュ・セデス(George Cœdès)はプラサットクナ遺跡(Prast Khna)から発見された碑文から、経蔵と思われる「この小祠堂」を指して、「この小祠堂は確かにプラサットクナのBibliotheque(ビブリオテック・図書館、経蔵)であった」と述べた。この論説により、一般的に「ビブリオテック・経蔵」が定着したと言われる。
・この説に対し、遺構を調査した結果
① 「経蔵と呼ばれる建物」の側壁上部に見られる数多くの小窓は「火を用いた宗教儀式」の換気口の役割と考えられる。
② 「経蔵と呼ばれる建物」の主室奥の壁面に壁龕(へきがん・ニッチ)が設けられているケースがある。そのため信仰対象物を収蔵したと考えられる。
③ 「経蔵と呼ばれる建物」の主室中央に仏像やリンガが残され、聖水を流すソーマスートラを設けた事例がある。
以上の事例から、「経蔵と呼ばれる建物」は「経蔵」ではなく「信仰対象物を奉ずる建物」の可能性が高い。
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アンコールワットの経蔵と言われる建物 |
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■「経蔵」と言われる建物について(3)
タイのヤソトーンの寺院ワットマハタートの「経蔵」は、人工池の中に柱を建ててその上に「木造の経蔵」が建てられている。この様な「経蔵」の建物をタイ国内の寺院で良く見かける。
「経蔵」は仏典を保管するためシロアリや鼠の被害に遭い易い。そのシロアリや鼠の被害を防ぐ為に人工池の上に建てたと言う。
タイの隣国であるクメールの「経蔵」も、人工池のバライ(聖池)の上に「木造の経蔵」が建っていたが、長い年月の中で朽ち果てて無くなってしまった。…と考えて見ると、「ふうみん」はすごく歴史のロマンを感じざるを得ない。
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ワットマハタート(タイ、ヤソトーン)の経蔵 |