旅のはじめにⅠ



(写真1):バイヨンの第一回廊のクメール軍とチャンパ軍の激しい戦闘場面の浮き彫り




チャンパへのいざない
クメール王朝の歴代の王は「神域不可侵」を信じていた。長年に渡り他国からの侵略を受けた事が無かったので、アンコール都城建設においても防衛体制は無きに等しかった。

ところが1177年、ベトナム中南部のチャンパ(占城・せんじょう)軍は大船団を組みメコンからトンレサップ川を遡り、アンコール都城に奇襲をかけて簡単に占拠した。それから4年間に渡り、アンコール都城はチャンパ軍に支配された。

1181年に即位したクメール王朝最強の王ジャヤヴァルマン7世は、激戦の末チャンパ軍を追い払い、ついに1190年にチャンパを併合し属国とした。

そのジャヤヴァルマン7世の創建したバイヨンの第一回廊には、クメール軍とチャンパ軍の激しい戦闘場面の浮き彫りで飾られている(写真1)。

(写真2):兵士を拡大
長槍を振りかざし、丸盾を持ち、髪を短く刈り込んだ褌姿のクメール軍(写真2・左)。

蓮華装飾の兜をかぶり、長い盾を持ち、半袖の鎖帷子?のような上着と短いズボンを穿いたチャンパ軍(写真2・右)。

「ふうみん」はその戦闘場面の浮き彫りの両軍を見比べて、明らかにチャンパ軍の戦闘装備の方がすぐれていると思った。

そのチャンパ軍に対し、クメール軍の方はまるで未開地の土人のようだ。それまで思い込んでいた、クメール=先進文明、チャンパ=野蛮、という単純な図式が根底から覆り、チャンパについての興味を覚えた。

数日後に見学した、やはりジャヤヴァルマン7世の建立したタイ国境近くのバンテアイチュマールでも同じような浮き彫り(写真3)を見て、改めて、チャンパとは何か?という問いが、頭の片隅に印象深く残った。

その後、クメール王朝の「王道」の地図を作成(次頁の図を参照)していた時、ベトナム中部のフエまで伸びるチャンパ王国を縦断するクメールの「王道」がある事を知り、機会があればチャンパの遺跡を巡りたいと思った。

(写真3):バンテアイチュマールのクメール軍とチャンパ軍の戦闘場面

チャンパについて調べ始めると、その資料の少なさと遺跡の保存状態の悪さが気になった。

その理由の一つは、現在のベトナムに住むベトナム人は越(ベト)族といわれる人が90%を占め、ベトナム先住民で長期間繁栄を誇ったチャンパ王国の末裔のチャンパ人はわずか6万人程度という。

そのため、現在のベトナム人にとってチャンパ人の残した遺跡は、自分達に関係ない先住民の残した遺跡に他ならず、遺跡の保存や整備などについてはどうしてもおざなりになるのだろう。

現在のところ、大好きなクメール遺跡については、カンボジアにまだまだ未見の遺跡が残っているが、それはひとまず置いて、新しいものにチャレンジしたいと思い、ベトナムにチャンパの遺跡を巡る旅に出かける事にした。


2010年1月 「ふうみん」




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