イサーンの大地走行2000キロプラス イサーンについて私が知っている二、三の事柄
03、メコンとタイ・ラオス国境
「yayo」 ふうみん Q&A
「yayo」は、今までタイとラオスの国境は「メコン」によって分けられているとばかり思っていたんだ。
それが、「メコン街道をゆく」の旅でレンタカーで走って、ノンカーイ県のチェンカーンからチェンライ県のチェンコーンまでのメコン左岸がラオス領(タイの失地地図C)だったなんて初めて知ったわ!
そうだね。「ふうみん」も以前は、漠然とタイとラオスの国境は「メコン」によって分けられていると思っていたんだ。
ところで何故、古都ルアンプラパーンの「メコン左岸」の「チャンパーサック、マノープライ地方」がラオス領なの?
これは1904年の「フランス・シャム条約」でシャム(タイ)がフランスへ領土を割譲したからなんだ。
その時の「ラオス」はフランスの植民地だったのね。
フランスは1863年に「カンボジア」を保護国化して、1866年から68年にかけてメコン調査隊を派遣してメコンを遡上し調査した。
これは、中国南部への通商路を開発しょうとしたのだが、しかし、コーンの滝の難所があって断念したんだ。そして、以後フランスは「ベトナム」の紅河に進出するんだ。
じゃあ、フランスは「ラオス」をあきらめて「ベトナム」に行くのね。
いや、フランスは本命のベトナムの後方の守りの為、むしろラオスの重要性が増すんだ。
そして、フランスは「ベトナム王国」の歴史的権利と称してラオスに進出するんだ
フランスてひどい国ね!インドシナ半島でやりたい放題ね。
本当だね。「イギリス」も同じだけれどもね。「yayo」がフランスのラオスに対する「愚民政策」を聞いたらなお更だよ!ここではその問題は別にして、
タイの失地地図に示した様にA1888年、B1893年、C1904年と「フランス・シャム条約」でシャム(タイ)はフランスへ領土を割譲していくんだ。
シャムはフランスへ対抗出来なかったの?
当時の欧米の列強に対抗する力はあの大国の「中国」にも無かったんだから、シャムには無理な話だね。
むしろ、フランスやイギリスに領土を割譲しながら独立を護った、当時のシャム国王の
ラーマ5世(チュラーロンコーン王)の巧みな外交手腕を評価すべきだと思うよ。
チュラーロンコーン王って、あのバンコクにある有名な大学の名前の人なの?
そう、チュラーロンコーン王は1868年から1910年に在位して、日本の明治天皇(1968〜1912)とほぼ同じ激動の時代を生きた王様と考えるとよく分るね。
この同時期、二人が在位していた国が欧米の列強に植民地化されなかったというのも日本とタイを結ぶ何かの縁かしらね。

2005.10.01掲載
タイの失地地図


タイ海軍が1935年に作成し、
1935年12月の憲法記念日に配布
したものを参考に「ふうみん」が作成





ラーマ5世
別名・通称
「チュラーロンコーン大王」

(Chulalongkorn the great)
1853−1910





  

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