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クメール王朝の歴史について教えてほしいんだけれど、まず、クメール王朝とアンコール王朝とはどう違うの? |
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同じ事なんだ。このサイトでは「クメール遺跡」としているから、「クメール王朝」で統一していこうと思う。まず、クメールの歴史は、
・前アンコール時代(紀元前後〜802年)と
・アンコール時代(802年〜1431年)と
・後アンコール時代(1431年〜1863年)の
大きく三っに分けられるんだ。 |
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それでは、最初の「前アンコール時代」は? |
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1世紀ごろ「扶南(ふなん)」が、カンボジア南部のメコンデルタに建国されたんだ。5〜6世紀にクメール族の「真臘(しんろう)」がラオス南部から南下してきて、7世紀初めには「扶南」を併合し「真臘」を建国したが、707年に、真臘は「水真臘」と「陸真臘」に分裂してしまうんだ。そして、802年にジャワから来た水真臘の王子ジャヤヴァルマン2世によって再統一された。 |
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ジャヤヴァルマン2世が即位して、アンコール王朝を創設したのね。802年といえば日本では、794年の平安京遷都と同時代ね! |
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そうだね。その3代後の、889年に即位した第4代のヤショーヴァルマン1世がアンコールを王都と定め、実に550年の長きに渡り続いたんだ。 |
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そして、この地を中心とした、クメール王朝の繁栄の歴史が始まるのね。 |
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クメール王朝の特徴は、王位継承にルールがなく代々の王は実力主義で王位についた事なんだ。 |
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そうすると、王の子供だから当然王位を継承して、次の王になるという儒教的な考えと異なるのね。 |
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ただし、正当な継承者の王として認めてもらうためには、聖都のアンコールに前の王以上の壮大な寺院を造営して、権威を示し、国民に認めさなければならなかったと考えられる。 |
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それで、アンコール地域には膨大な数の石像寺院が残っているのね。 |
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その中でも特に素晴らしい、アンコールワットは18代のスーリヤヴァルマン2世の造営で、アンコールトムは21代のジャヤヴァルマン7世の造営なんだ。 |
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ジャヤヴァルマン7世の名前は、イサーンのクメール遺跡によく出てくるわね。確か王道を整備して、121ヶ所の宿泊所と102ヶ所の病院を建てた人ね。 |
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よく覚えているね。このジャヤヴァルマン7世の時のクメール王朝は「すべての道はローマに通ず」じゃあないけれど、「すべての東南アジア大陸部の道はアンコールに通ず」と言っても過言ではないと思うよ! |
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ジャヤヴァルマン7世の時代に、クメール王朝は最高の栄華を極めたのね。 |
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ジャヤヴァルマン7世の102の病院の建設には、838の村と8000人の労働力を動員したと記録されている。そして、主要道路には、ほぼ16キロごとに宿駅が整備され、ピマーイとアンコールの間にも16の宿駅が置かれ、チャムの都ヴィジャヤとアンコールの間には実に56のもの宿駅が置かれたんだ。 |
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その栄華もジャヤヴァルマン7世の死(1220年?)と共に崩れ去ったのね。まさに、おごる平家久しからず!。平家といえば、1185年に壇ノ浦で滅びたからまさに同時代だわ。日本の鎌倉幕府が1192年に開かれたから、クメール王朝の繁栄は日本の平安時代(794年〜1192年)と同じと考えると分り易いわ。 |
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ただ、最近の研究ではジャヤヴァルマン7世の死で直ぐに衰退したのではなく、それからも繁栄は続いたみたいだ。1296年の周達観の書いた「真臘風土記」には「富貴真臘」と褒め称えてあるからね。その後、衰退に向かい1431年ごろに、アユタヤに攻められてアンコールは陥落した。そして、アンコール時代は終焉し後アンコール時代となるんだ。 |
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最後にクメールの王様には、「ヴァルマン」と付いているけど、どういう意味なの? |
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「ヴァルマン」とは「守護者」とか「庇護者」という意味がある。ただし、1371年に即位した王からはこの「ヴァルマン」の称号は廃止されたんだ。まさに王朝の末期で「守護者」ではありえなかった。と云うことを如実に物語っているね。 |