イサーンの大地走行2000キロプラス イサーンについて私が知っている二、三の事柄
4、クメール王朝の歴史
「yayo」 ふうみん Q&A
クメール王朝の歴史について教えてほしいんだけれど、まず、クメール王朝とアンコール王朝とはどう違うの?
同じ事なんだ。このサイトでは「クメール遺跡」としているから、「クメール王朝」で統一していこうと思う。まず、クメールの歴史は、
・前アンコール時代(紀元前後〜802年)と
・アンコール時代(802年〜1431年)と
・後アンコール時代(1431年〜1863年)の
大きく三っに分けられるんだ。
それでは、最初の「前アンコール時代」は?
1世紀ごろ「扶南(ふなん)」が、カンボジア南部のメコンデルタに建国されたんだ。5〜6世紀にクメール族の「真臘(しんろう)」がラオス南部から南下してきて、7世紀初めには「扶南」を併合し「真臘」を建国したが、707年に、真臘は「水真臘」と「陸真臘」に分裂してしまうんだ。そして、802年にジャワから来た水真臘の王子ジャヤヴァルマン2世によって再統一された。
ジャヤヴァルマン2世が即位して、アンコール王朝を創設したのね。802年といえば日本では、794年の平安京遷都と同時代ね!
そうだね。その3代後の、889年に即位した第4代のヤショーヴァルマン1世がアンコールを王都と定め、実に550年の長きに渡り続いたんだ。
そして、この地を中心とした、クメール王朝の繁栄の歴史が始まるのね。
クメール王朝の特徴は、王位継承にルールがなく代々の王は実力主義で王位についた事なんだ。
そうすると、王の子供だから当然王位を継承して、次の王になるという儒教的な考えと異なるのね。
ただし、正当な継承者の王として認めてもらうためには、聖都のアンコールに前の王以上の壮大な寺院を造営して、権威を示し、国民に認めさなければならなかったと考えられる。
それで、アンコール地域には膨大な数の石像寺院が残っているのね。
その中でも特に素晴らしい、アンコールワットは18代のスーリヤヴァルマン2世の造営で、アンコールトムは21代のジャヤヴァルマン7世の造営なんだ。
ジャヤヴァルマン7世の名前は、イサーンのクメール遺跡によく出てくるわね。確か王道を整備して、121ヶ所の宿泊所と102ヶ所の病院を建てた人ね。
よく覚えているね。このジャヤヴァルマン7世の時のクメール王朝は「すべての道はローマに通ず」じゃあないけれど、「すべての東南アジア大陸部の道はアンコールに通ず」と言っても過言ではないと思うよ!
ジャヤヴァルマン7世の時代に、クメール王朝は最高の栄華を極めたのね。
ジャヤヴァルマン7世の102の病院の建設には、838の村と8000人の労働力を動員したと記録されている。そして、主要道路には、ほぼ16キロごとに宿駅が整備され、ピマーイとアンコールの間にも16の宿駅が置かれ、チャムの都ヴィジャヤとアンコールの間には実に56のもの宿駅が置かれたんだ。
その栄華もジャヤヴァルマン7世の死(1220年?)と共に崩れ去ったのね。まさに、おごる平家久しからず!。平家といえば、1185年に壇ノ浦で滅びたからまさに同時代だわ。日本の鎌倉幕府が1192年に開かれたから、クメール王朝の繁栄は日本の平安時代(794年〜1192年)と同じと考えると分り易いわ。
ただ、最近の研究ではジャヤヴァルマン7世の死で直ぐに衰退したのではなく、それからも繁栄は続いたみたいだ。1296年の周達観の書いた「真臘風土記」には「富貴真臘」と褒め称えてあるからね。その後、衰退に向かい1431年ごろに、アユタヤに攻められてアンコールは陥落した。そして、アンコール時代は終焉し後アンコール時代となるんだ。
最後にクメールの王様には、「ヴァルマン」と付いているけど、どういう意味なの?
「ヴァルマン」とは「守護者」とか「庇護者」という意味がある。ただし、1371年に即位した王からはこの「ヴァルマン」の称号は廃止されたんだ。まさに王朝の末期で「守護者」ではありえなかった。と云うことを如実に物語っているね。
クメール王朝の歴史年表
西暦(年) 事項
1世紀頃 「扶南」興る
7世紀初頭 「真臘」建国
707年 「真臘」分裂
616年 イーシャーナヴァルマンが初めて中国に遺使
802年〜
850年
第1代、ジャヤヴァルマン2世即位。クメール王朝創始
889年〜
910年
第4代、ヤショーヴァルマン1世登位。アンコールを王都と定める
1002年〜
1050年
第12代、スーリヤヴァルマン1世即位。大乗仏教に引かれる。涅槃王
1050年〜
1066年
第14代、ウダヤーディチャヴァルマン2世即位。パプーオン寺院を建立
≪パプーオン様式≫
1080年〜
1113年
第16代、ジャヤヴァルマン6世即位。ピマーイが建立された
1113年〜
1150年
第18代、スーリヤヴァルマン2世即位。アンコールワットの造営
アンコール様式
1177年 チャンパ軍のアンコール都城占領
1181年〜
1220年
第21代、ジャヤヴァルマン7世即位。
アンコールトムの造営開始
13世紀
初頭
ジャヤヴァルマン7世、アンコールトムを完成
バイヨン様式
1296年〜
1297年
周達観、元朝の使節に同行しアンコール訪問。石造金箔のこの大都市を「富貴真臘」と褒め称えた「真臘風土記」を書く
1431年 シャムのアユタヤ朝に攻略されアンコール王都陥落



建築様式別のイサーンのクメール遺跡
建築様式
≪パプーオン様式≫
ムアンタム ブリーラム県
カムペンヤイ シーサケット県
アンコール様式
パノムルン ブリーラム県
シーコラプーム スリン県
バイヨン様式
カンペンノイ シーサケット県
タームアン スリン県



写真
ピマーイ遺跡の
ジャヤヴァルマン7世の像




  

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