イサーンの大地走行2000キロプラス ひとりごと
65、令和と大喪の礼 2019.04.30

5月1日から「令和」次代へ



2019年5月1日、時代は「平成」から「令和」へと改元される。「令和」へは天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位でお祝いムードで迎えられるが、「平成」へ変わった直ぐの1989年2月24日、この年の1月2日に崩御した昭和天皇の「大喪の礼」が自粛ムードの中で挙行された。

今から30年前の「大喪の礼」の時、韓国はどういった反応を示すのか?興味が沸き韓国の釜山に行く事にした。

「ふうみん」はこの頃朝鮮半島問題に興味が沸き、1987年から97年にかけて読破した「韓国、朝鮮」の各種ジャンルの本200冊の一覧表は、ここにhttp://kuradashieigakan.com/con09book/databank2.htm
置いてます。 

その時の旅は、サイト内の「海外紀行」に掲載しましたが、当時の空気がわかると思いますので下記に転載します。

当時、日韓関係は時間と共に良好になって行くと思っていたが、まさか現状のような最悪な関係に成るとは考えもしなかった。

確かに、30年前には若い人が自分の名前も漢字で書けないと「ハングル世代」の将来を危惧する声があったが、ここまで酷くなるとはね。

・・・まあ!残された短い人生、二度と韓国へ行く事はもう無いだろう。



海外紀行4 大喪の礼の時、新羅の古都慶州に行った


~はじめに~

昭和天皇が崩御された大喪の礼の時、日本に35年間に渡って統治されていた韓国はどういった反応を示すのか、興味が沸き韓国に行く事にした。

平成元年当時、面倒くさい事にビザが必要だった。ソウルには何度か行っていたので、今回は釜山に行く事にし、ついでに古代天皇家とも関係のある新羅の古都慶州へも行った。

私は転勤で滋賀県に住んでいた。滋賀県は京都、奈良に次いで日本で三番目に文化財が多く、特に古代史の史跡には朝鮮半島との関連を示すものが多かった。

家の近くには石塔寺があり、ここにある素晴らしい国宝の阿育王宝塔はまさに百済様式の石塔である。

司馬遼太郎が「街道を行く」の第2話の「韓のくに紀行」と題した冒頭に取り上げたのが、この石塔寺だった。朝鮮半島に造詣の深い司馬遼太郎が興味を示しただけの事はある石塔だと思う。

また、鬼室神社が隣の蒲生町小野にあり、白村江の戦い(663年)で新羅に敗れた百済からの帰化人の鬼室集斯が天智朝で「学識頭」についたが、この鬼室集斯の墓があり今もその子孫により祭られている。

石塔寺・国宝の阿育王宝塔



龍頭山公園の釜山タワー





~慶州へ~

1989年2月25日に慶州に行った。

慶州へは、釜山の中心部のホテルから地下鉄に乗って東來へ行き、ここの高速バスターミナルから高速バスに乗り1時間20分程で慶州に着く。

慶州には一人で行くつもりだった。前の日にガイドの「キム」さんが、「明日のフリータイムはどうしますか?」と聞いて来たので、私は「一人で慶州へ行きます」と答えた。

この当時、韓国を一人で旅をする日本人は少なく、驚いた「キム」さんは明日非番なので慶州迄付き合ってくれるという。

実は私はこの頃韓国に凝っており、100冊以上の韓国関連の本を読んでいた。そして、ほんの少しではあるがハングルが出来た。そんな私の姿勢を「キム」さんが評価してくれたのだと思う。

東來の高速バスターミナルの切符売り場で早速「キム」さんは、私に「ハングルの練習です。切符を一人で買って下さい。」と言った。私は、「慶州(キュンジュ)一枚(ハンジャン)下さい(ジュセヨ)」と言って切符を買った。

その間「キム」さんは飲物とお菓子を買っ来て、私に、バスの中では反日感情を持つ人が居るかも知れないので「日本語」で話す事は厳禁だと釘を刺して、お互い意思の疎通は筆談でしましょうと言ってバスに乗った。

バスは雨の高速道路を快適に飛ばした。私達はその間筆談で、日本の事、韓国の事を色々と話した。

「キム」さんは日本に対して非常に興味を持っており、早くNHKのBS放送が見たいと言った。この頃はまだアンテナ等も高価だったし、韓国人はまだ外国に自由に行けない時代だった。

古墳公園 入場料880ウオン



とても静かな古墳公園



雨のそぼふる古墳公園



天馬塚古墳の前にて「ふうみん」





~慶州観光~

雨がしとしと降る中、慶州では先ず古墳公園に行った。公園内には他の観光客は居なかった。

古墳公園は、23基の古墳を石垣で囲っている。のどかな風景の古墳群の中で最も有名なのが「天馬塚古墳」である。

天馬塚古墳は1973年の発掘調査の際、天馬の姿を描いた馬具が出土した。発掘された遺物数千点は、国立慶州博物館などに展示されている。


次に国立慶州博物館に行った。

鉄筋コンクリート造りに韓国古来の瓦を葺いた韓洋折衷の博物館。本館と別館に別れ、本館二階の展示室と別館に新羅時代の貴重な遺物が展示してある。収蔵品は3万点以上に及ぶ。

門近くの大きな釣鐘は8世紀に建造された国内最古の鐘で、エミルレ(おかあちゃん)の鐘と呼ばれる。

この鐘を完成させる為に、溶鉱炉に入れられた幼い女の子が、ルツボの中からエミルレ(おかあちゃん)と叫んだと言う悲しい話が今に伝わる。


続いて、タクシーで仏国寺に行った。・・・タクシーは100キロで飛ばし怖かった。

創建は新羅の法興王代528年で、751年時の宰相でもあり建築家、彫刻家の金大城の発願で伽藍は大規模に拡充された。

1593年の壬申の乱により、加藤清正軍に焼き払われ残ったのは石造部分のみ。基礎部分に焼けた後が残っている。

釈迦塔は高さ8.4メートル。阿斯達が作ったといわれる簡素な美で知られる。

多宝塔は高さ10.4メートル。すぐれた石組技巧をこらした優美な石造物である。

国立慶州博物館 入場料200ウオン



国立慶州博物館の庭



国立慶州博物館の石の仏頭



エミルレ(おかあちゃん)の鐘





~慶州にて その後~

「キム」さんが、「昼食は何にしますか。」と聞かれたので、観光客用の食堂では無く地元の人達が利用する食堂がいいと答えた。

古墳公園の近くの地元の食堂で「スン豆腐チゲ」を注文した。韓式家屋の小さな食堂の土間には私達の他客は誰も居ず、ストーブの上のやかんがチンチン鳴り勢いよく湯気を吐いていた。

2月の底冷えのする寒さと雨の中、グツグツと煮えたぎる「スン豆腐チゲ」と焼酎の「真露」は、私の冷えたきった体の中に染み渡った。

「キム」さんは学生時代に、この慶州の石窟庵の帰り道に日本人の大学生と知り合い今も付き合っている。その彼に結婚を申し込まれてどうするか迷っていた。そんな「恋」の悩みを聞きながら、私は「スン豆腐チゲ」を突っつき「真露」を飲んだ。

その後、二人は九州で結婚式を挙げ、私も新婦の「キム」さん側で出席しお祝いの言葉を述べた。東京に新居を構えた二人には子供も生まれた。

帰り道に同席した韓国人留学生と博多の中州で、日韓の歴史について議論を交わした思いでもある。


昭和天皇が崩御された大喪の礼は、韓国のTVでは放映していたが、釜山の街は全く普段どおりの日常の韓国だった。

街歩きの最中、龍頭山公園の釜山タワーの下で、老人から「日本語」で話しかけられたが、いやな事は何も無かった。

夜、釜山のカラオケ店で「釜山港に帰れ」をハングルで歌った。

コッピヌン トンペクソメ ポミ ワッコンマン…
 花咲く   椿島に   春は  来たけれど…

仏国寺 入場料1500ウオン



阿斯達が作ったといわれる
簡素な美の釈迦塔



すぐれた石組技巧をこらした
優美な多宝塔




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