第24部 タイのシルクロードをゆく
旅を終えて
ウートン国立博物館の古代の交易所のジオラマ
■タイのシルクロードの痕跡を探して
今回の旅は、冒頭の旅の始めにでも述べたようにクメールと同時代の、「ドヴァーラヴァティー」と「シュリーヴィジャヤ」の遺跡や遺物に関連した、古代の交易路(シルクロード)の痕跡を探す旅だった。

20を超す博物館の見学、15日間で4234キロ走行の旅は、団塊世代の「ふうみん」にとっては、なかなか厳しい旅でもあった。そんな中、思っていた以上の旅が出来た事は幸せだったし、長年のテーマであるタイのクメール遺跡を自分なりに探求していた時とはまた別に、タイの古代の交易路をめぐる旅が出来たのは嬉しかった。

この旅の中で、タイのシルクロードを自分なりに纏めたものを下記に載せましたが、内容については素人の考察ですのでご容赦のほど。・・・まあ、2003年から4万キロ以上もタイ国内をレンタカーで走行して遺跡巡りをした年寄りの道楽ですから。

今回の旅の計画時だった昨秋に、タイミングよく貴重な情報をネットにアップして伝えていただいたマレンポーさんの「泰国の変なスポット」と、何時もの様にドライブの半分以上も運転した家人の「yayo」に感謝いたします。
2020年2月 「ふうみん」








(写真1) (写真2)
Wat Phra Boromathat Khao Srivijaya(Khao Phranarai)
(写真3) (写真4)
Khao Phra Neur Khao Phra Narai


神像が語る海のシルクロード


●扶南の滅亡と盤盤への亡命

2世紀ごろに建国された「扶南」は、成立初期においては一港市国家に過ぎなかったが、東西交易の仲介地として発展しタイ湾の多くの港市国家を服属させた。そして、広さ三千里(1200キロ)に及ぶ大国となる。

5~6世紀メコン中域のチャンパサック地方に「真臘」が誕生した。真臘は扶南の属国だったが、次第に勢力を増して扶南を圧迫した。どのような形であったか不明だが6世紀の後半に扶南は滅亡した。扶南は、属国の盤盤の首都であるチャイヤーに亡命し支配した。


●チャイヤーの神像(仏像・ヴィシュヌ像)

チャイヤーの名刹ワットプラボーロマタート発見の仏陀像(写真1)が、チャイヤー国立博物館に展示されている。この仏像は、旅行記の3日目に詳しく述べたが扶南のアンコールボレーの6~7世紀の制作と思われる。

また、スラターニーのブンフィン地区にある長さ400メートルの小山のカオシューリヴィジャ(カオプラナライ)から、ヴィシュヌ像(写真2)が出土し、バンコク国立博物館に展示されている。

この2体の神像は、扶南の様式であり、扶南で造られたものが船で運ばれたか、亡命した扶南の職人が盤盤で造ったともの考える。


●タクアパのヴィシュヌ像

タイ湾に面したチャイヤーの交易路(横断路)の反対側のアンダマン海(インド洋)に面してタクアパがある。

このタクアパ川の河口の対岸にコカオ島があり、ここから古代の交易所のトゥントゥク遺跡が発掘された。交易所の場所は、モンスーンを避け船が停泊するのに最適な港である。

トゥントゥク遺跡の対岸にあるカオプラヌールからヴィシュヌ像(写真3)が出土し、バンコク国立博物館に展示されている。この像について、美術史家のピエール・デュポンは、パラヴァ様式の6~7世紀といい、歴史家のスタンリー・オコーナーは、グプタ様式後の7~9世紀との見解を示している。

タクアパ川沿いカポン地区のカオプラナライ(カオウィアン)から、ヴィシュヌ像(写真4)が出土した。この像について、歴史家ピリヤ・クラリクシュは、パラヴァ様式といい、近くのワットナライニカラムに安置された。その後、プーケット国立博物館に移され、寺院には精巧なレプリカが置かれている。

この2体のヴィシュヌ像は、歴史家等の見解からインドで製作されたものだろう。


●神像とシルクロード

そして、発見された4体の神像を線で結ぶと、そこには下記の図のような古代の海のシルクロード(横断路)を描くことができる。

このシルクロードは、盤盤からシュリーヴィジャヤへと継続しながら、11世湖ごろまで繁栄した。その後、マラッカ海峡を通過する航行技術の発展や中国の海洋政策の変更、またインドのチョーラ朝の侵略などの要因が重なり衰退していったと考える。









タイ湾の古代海岸線 5~11世紀




(写真5) (写真6)
Si Mahosot Kamphaeng Saen
(写真7)
Si Thep




(写真8)
長さ64メートル高さ20メートルの巨大遺跡、Khao Klang Nok


ドヴァーラヴァティーのシルクロード


●ドヴァーラヴァティーの都市は海に面していた

「ふうみん」の持っていたドヴァーラヴァティーのイメージは、6~11世紀頃まで存在したモン族による王国で、内陸部に環濠都市を築いていた。

そんなドヴァーラヴァティーの都市像が、ウートン博物館に展示されていた左記の「タイ湾の古代海岸線図」を見て、認識を新たにした。この当時、アユタヤやバンコクはまだ海の中である。

ナコンパトムを始め主要な都市の多くが海岸線に面しており、多くの交易ネットワークを持つ港市国家として成立し発展していた。

内陸部にもシーテープやムアンファデーを始めイサーン地方にも多くの環濠都市があり、海岸部の都市とは下記の図のように「交易ネットワーク」で結ばれていた。

ドヴァーラヴァティーとは、サンスクリット語で「港への通路」という意味だという。名は体を表すというが、まさにそのとおりだ。


●環濠の形が違う

ドヴァーラヴァティーの環濠都市を調べていくと、沿岸部の都市と、内陸部の都市との環濠の形が異なる事に気が付いた。

海岸部の環濠都市は方形に近いプラン(写真5)であり、内陸部の環濠都市は自然地形で丸型に近いプラン(写真6)を持っている。

これは、海岸部の環濠都市は、インドなどの外国人との直接的な交易を通じて、インドの方形プランを都市の理想とする思想の影響であろう。

内陸部の都市プランは、古くから自然の地形の中で暮らしてきた集落が発展し、そのまま都市へと発展したものであると思う。

面白いと思ったのは、内陸部のシーテープ遺跡(写真7)だ。最初は左側の円形の環濠都市だったが、交易ネットワークの重要基点として発展した結果、今までの都市が手狭になり、右側にインド化した都市プランによって方形部分が増築された。


●独自の発展を遂げたドヴァーラヴァティー

クメールのアンコールトムなどに見る正確な方形都市プランと、ドヴァーラヴァティーの自然地形の都市プランは根本的な所で異なる。

それは、ドヴァーラヴァティーの国家としてのアイデンティティなのだと思う。

「ふうみん」が、ドヴァーラヴァティーの環濠都市遺跡を見学して不思議の思ったことは、ナコンパトムの環濠の外に築かれた世界最大のチェディーのプラパトムチェディーやシーテープの環濠外の巨大建築遺跡のカオクランノック(写真8)などの存在である。

通常の都市プランであれば、重要な宗教施設と王宮などは環濠と城壁に囲まれた中に置かれているはずだ。何故、巨大な宗教施設をわざわざ環濠外に建設したのだろうか?

こんな事などを踏まえて、タイのシルクロードの環濠都市として発展した、ドヴァーラヴァティーの文明観や宗教観などを調べていくと面白いかも知れないと思う。



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イサーンの大地走行2000キロプラス タイのシルクロードをゆく
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