■行程5日目>エメラルドトライアングルへ



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走行DATA 当日走行距離 403km 累計走行距離 1.439km
当日給油 27.4 ℓ 累計給油 95.0 ℓ





■06:09 車を飛ばして、コンチアムの展望台に朝日を撮りに来たが、今朝は雲が多く、残念ながらお日様を拝めず。


■06:28

コンチアムの先端の寺院(Wat Khong Chiam)の中に、二色川(Two Color River)の碑と展望台があった。


■06:30

展望台から眺めた二色川の地点。

青色の水がムーンリバー、茶色がメコン。


■06:39

コンチアムの市場に体育館のような屋根が付いていた…ビックリ!

昨日のセブンイレブンといい、昔日の感があるネ。


■07:30

今までと朝食のレストランの場所が変わっていた。

Graden Terrace という名のレストラン。

メコンも見えて、なかなか可愛い感じだ。


■07:36

おかゆとベトナム風のおかず。


■07:51

やはり、フォーはかかせません。


■07:58

すごく甘いタイ風コーヒーと果物。

右側の赤い皮に白身の果物はドラゴンフルーツだ。

この果物だけは、タイのどこで食べてもベトナムのような甘さが無く、美味しくない。何でだろう?


■09:13

ゆっくりと朝食を摂り、ホテルでのんびりとする。

クメール遺跡を探す時は、どうしても朝早い出発になってしまうが、今日は9時の出発だ。

エメラルドトライアングル(Emerald Triangle)に向かうため、2173号線を走る。

右の道路は2296号線で、ケーンタナ国立公園に通じる。


■09:18

突き当りの217号線を左折して、タイ・ラオス国境のチョーンメック(Chong Mek)に向かう。


■09:32

タイ・ラオス国境の街、チョーンメックをUターンして、最初の信号を左折する。

ここチョーンメックには、明日来てラオスに入国しょう。


■09:36

チョーンメックから来た道はT字路にぶつかる。ここが2396号線だ。

この道を左折する。


■09:48

まさに、タイ東端の道路だ。その道を快適に走る。

右側にシリントンダム(Sirindhorn Dam)があるが、ダム湖はほとんど見えない。


■10:04

快適な道だね!と言っていたが、そのうちに、かなりの悪路になる。



■10:16 灼熱の太陽の日差しをまともに受けながら黙々と歩く、僧侶の集団に出会う。


■10:25

本当は右折してBuntharik 方面に行くところ、間違って左折してしまった。


■10:30

どうもおかしい?こんな水溜りの堰の上の道を走るのは!

地図と睨めっこし、今来た道を戻る。


■10:39

戻った道(ここも悪路だ)を走っていると、Buntharik 迄5キロの標識が出ていた。


■10:45

Buntharik の街中を走る。

こんな東の果ての街にも、セブンイレブンがあった。


■10:55

オートバイの左に車が頭を出しているところが2248号線。

ここを左折しなくてはならなかったが、気が付かずに直進した。


■11:34

数キロ先まで行ってUターンし、2248号線を走る。

エメラルドトライアングル(Emerald Triangle)の標識が出ていた。


■11:37

この先を左折して、エメラルドトライアングルへ向う。


■11:38

エメラルドトライアングルへの道を走る。

エメラルドトライアングルとは、チェーンセンの北にあるゴールデントライアングルに対抗して観光用に付けられた、タイとカンボジアとラオス3国の国境地点だ。


■11:40

ダム湖に出る。

ここの地点までは、5年前の「第三部 失われた王道を求めて」の旅で来た事がある。

その時、この先の道路はまだ工事中だった。


■11:42

工事中だった道路は綺麗に完成されていた。

国境警備隊のゲートも開いている。エメラルドトライアングルまで行ける!と期待に胸が高まる。


■11:47

道路の両脇の草が伸び放題で、一台の車が通るスペースしかない。

何か!変な感じだ。

…不安が頭の片隅をよぎる。


■11:54

一直線に国境に向かって伸びる道路。


■11:54

やっぱりダメ!か。通行止めだ。


■11:54

タイ語の看板。何が書いてあるのだろう?

多分この国境封鎖は、2008年のプレアビヒア(カオプヴィハーン)の世界遺産登録に端を発した問題の関連だろう。



■11:54 周りを見渡すと、タイ・カンボジアの国境封鎖という人間世界の軋轢とは無関係の美しい光景が展開していた。

このエメラルドトライアングルについての詳しい記事は無く、Shinji さんの「掲示板」への投稿を載せます。ご参考まで


■Shinji さんの「掲示板」への投稿より 2006.09.06


Bankok Post によりますと、Emerald Triangle の国境ゲートが先週末にオープンした模様です。といってもこれは独立した記事ではなく、「Emerald Triangle で狩猟禁止の野生動物が食肉用に取引されている」という記事の中の一文でさりげなく国境ゲートのオープンについて記されていました。詳細は不明ですが、文脈から推察するに、Emerald Triangle の西側1kmほどの位置でタイ・カンボジアの国境が開かれたのだと思います。今のところ外国人の越境は不可で、それで英字紙での扱いが地味なのでしょう。

タイ・ラオス・カンボジアの国境が交わる Emerald Triangle というのは観光用のキャッチフレーズで、地名としては Chong Bok です。Chong (峠)というくらいなので、昔から人の行き来はあったのでしょう。私が推定した国境越えルートを画像上に白線で示しました。タイ側の国境線は分水嶺ですが、カンボジアとラオスの間の国境線は Tonle Repou というメコン支流です。

1979年には、ベトナム軍侵攻の煽でカンボジア難民13,000人が Chong Bok 経由でタイに逃げ込み、タイ政府は難民キャンプ2個 (Chong Bok, Nam Yuen)を造って対応しました。ところがこの中に相当数のクメールルージュ兵士が紛れ込んでいたようで、難民キャンプを拠点に反ベトナム活動を行いました。怒ったベトナム軍は難民キャンプを攻撃するためにタイの領土に侵攻し、タイの軍隊とかなり派手な交戦を行ったそうです(1985-1986)。

おそらく数年の内には外国人も行き来できる国境ゲートに格上げされ、お定まりのカジノやゴルフ場が建設されて情緒もへったくれもなくなるでしょうから、鄙びた国境の雰囲気を味わうのは今が旬だと言えます。




■11:55

通行止め地点の全景。


■11:55
湖の反対側に何かの施設がある。

その施設の中から、尋常ではない大きな怒鳴り声が聞こえる。

精神病院かな?


■11:56

その施設の入り口手前には、パネルの両側に戦闘場面の写真が掲示されてある。

前掲のShinji さんの投稿から推測すると、ベトナム軍との戦闘時の写真か?

誰もいない通行止めの静寂な国境の地点。そして、施設からの異様な怒鳴り声と死体の写った写真。

なんだかうす気味が悪くなり、早々に退散する。



■12:05 エメラルドトライアングル…無秩序に開発され、森林の少なくなったイサーンの僻地。この地が100年前まで見渡す限りの森林地帯の名ごりなのかも知れないと思うと、せめてエメラルドトライアングルの一帯だけでも残してもらいたいと願う。


■Shinji さんの「掲示板」への投稿より 2008.02.21


イサーンが開拓されて広大な農作地帯となったのはここ数十年の話で、100年前には見渡す限りの森林地帯だったという話です。(下図参照)


【1840s】
白い部分が耕作エリアです。手付かずの大森林に比べてほんのわずかです。これは要するに人口がまだ少なかったので、積極的に森を開拓する必要が無かったわけです。ちなみに、農作物の出来・不出来によって移転を繰り返すような小集落は森の中に点在していました。

1840sの拡大地図を見ると、当時の人口集中地区として Nong Khai、Sakhon Nakhon、Nakhon Phanom、Ubon、Si Saket...等が目に付きます。これらはイサーンの中でも「由緒ある」地域といえます。

政治史的には1827年に Vientiane の Chao Anu の反乱が Rama III によって鎮圧されて以来、ラオスは事実上タイに吸収され、イサーンは全域にわたってタイの支配下に置かれていました。が、バンコクから直接支配をするだけのインフラが整っていなかったので、各地の有力者に統治を委ねる間接支配(huamuang)が行われていました。支配といってもその程度はゆるやかで、農民(主にラオ系)は自立的・自給自足的な生活をし、社会構造は比較的平等でした。




【1950s】
アッという間に100年後です。この100年間の主な出来事としては、
1.フランスにラオスを持っていかれて、国境(イサーンの境界)が画定した。
2.バンコクから送られた役人がイサーンを直接支配するようになり、地元の利益よりもバンコクの利益が優先されるようになった。
3.鉄道や道路(物流インフラ)が整備され、バンコクによる徴税と中華系商人による中間搾取が本格化。
4.タイ(バンコク)語による学校教育、タイ(バンコク)式仏教の布教、国王の宣伝などを通じて、イサーンを文化的に同化しようとした。

この頃から政府の主導で農村開発・農地拡大ブームが始まりました。といっても長期的な展望があったわけではなく、乱開発時代の幕開けといえます。農民に開発意欲を持たせるためには、阻害要因となっていた宗教感の変革を必要としました。
1.物欲を持たず、現状に満足する → 勤労は美徳、収入アップでハッピーに
2.森(に住む精霊)に対する畏敬の念 → (精霊を否定する)タマユット派の布教
役人は既に敵対視されていて何を言っても説得力が無かったので、サンガに要請して僧(いわゆる開発僧)を動員しました。

また、世界の趨勢にならって「緑の革命」(高収穫品種、モノカルチャー、農薬、化学肥料、機械化)がタイでも導入されましたが、狡猾な税体系のために増収分はほとんど政府や中華系商人に持っていかれ、農民に残ったのは借金と疲弊した土地だけでした。「百姓は生かさず殺さず」という言葉がタイでも使われました。森林の消失は自給自足的な生活様態を困難にし、資本主義経済が農村を呑み込んでいきました。多くの農民が借金のために土地を手放し、低賃金労働者として都市に流出していきました。「タイでは生活できないからラオスへ逃げようか」という冗談のような話がイサーンの農民の間で交わされました。


【1980】
「持続可能な開発」という観点からするとイサーンの森林開拓は既に限界に達していて、森林局などは開拓にストップをかけるように提言し始めたんですが、軍はさらに森林開拓を推し進めました。「コミュニストの隠れ場所を根絶やしにする」というのが表向きの理由ですが、高騰しはじめていた木材の入手という実益もありました。「開拓した土地は開拓者が取得してよろしい」という軍の口約束を信じた多くの農民が、残り少ない森林を切り開いていきました。開拓はしばしば森林局の定める森林保護区域(National Forest Reserve)内にまで及んだのですが、この保護区域というのが曲者で、森林局は一方的に指定して地図に記すだけでろくに管理や周知もせず、保護区域内の農民に耕作権を認めるという事も行われていたので、「開拓して税金を払っていれば土地は自分のものになる」と農民が思ったのも無理はありません。

80年代後半には「コミュニストの脅威」もほぼ消滅し、森林保護派の政治的発言力が増してきました。R1117(ウンパンへの山越えルート)の工事は1987年に中止され、Nam Choan Dam (Sri Nakharin Dam の上流)は棚上げされました。過度の森林伐採の付けが各地で水害(洪水、鉄砲水、土砂崩れ)という形で表面化しました。1988年11月、南タイの土砂崩れで350人(公称)が犠牲となり、翌年政府は森林伐採を全面禁止、開拓の時代は終わりを告げました。


【1990】
森林とそこに生息する動植物の希少価値が高まり、政府は国立公園や自然保護区などの制度を拡大・厳正化して森林の保護にあたりました。もうすこし正確には、森林を独占する事によって生じる利益の保護ということになります。森林局のパトロールでは「密猟者」との衝突が頻繁に起こり、陸軍管轄のレインジャー部隊がパトロールを補佐するようになりました。

森林保護区域内に居住するとされた農民に対しては、代替地(荒地)を用意して強制移住させ、跡地を植林(アグロビジネスにリース)するという構想が森林局と軍の間で合意されました。80年代には農民に森の開拓を奨励していた軍が一転してその開拓地から農民を強制排除するというというのは滑稽な構図ですが、軍にとっては80年代の混沌と出任せを清算して、新しい時代の森林ビジネスに食い込むチャンスだったわけです。強制移住対象人数が600万人(北タイの山岳民族を含む)というこの超大型プロジェクト(名付けて Kho Jo Ko)は、91年のクーデタで軍事政権が樹立すると実行に移されました。住民の反対を圧しやすいイサーンから着手されたんですが、その様子は涙なくしては語れないものがあります。英語が読めれば
http://www.ilo.org/public/english/bureau/inst/download/r107.pdf
の第三章に詳しく書いてあります。Kho Jo Ko は、農民が必死に抵抗したのと、軍事政権が倒された事もあって92年に破棄されました。
が、同時期にイサーンで反対されていた Rasi Salai、Hua Na、Pak Mun のダム工事は強行されました。


以上、森をテーマにしてイサーンの歴史を振り返ってみました。まとめますと、
1.イサーンの歴史はバンコク政府による植民地化の歴史だった(internal colonialism)
2.過去100年にわたる人的・物的リソースの搾取がバンコクの発展を支え、イサーンの貧困を招いた
という事になります。

ちなみに国立公園における法外な外国人料金は、タイ人料金vs外国人料金という構図にカモフラージュされていてその本質が見えにくいんですが、これもやはり(バンコク)政府による(地方の)森の私物化の意識の表れであるといえます。


■12:42

2248号線に戻り、Nam Yuen の街に入る。

昼食の時間だ。


■13:01

Nam Yuen の街を往復し、一軒のソムタム屋台に入る。

そうすると、同じ経営の隣の綺麗な店に案内してくれた。


■13:07

ビールは持ち込みで、ソムタムとガイヤーンとカオニャオのイサーンの3点セットを頼む。

ソムタムが不味い。今までタイで食べた一番不味いソムタムの10倍も不味い。

お店の人は親切だったが、このソムタムは残す。


■13:30

満腹にならなかったので、近くのセブンイレブンで、ぶどうパンと飲み物を補給。


■13:48

2214号線を走る。

旧道の面影を残す快適な道路だ。


■14:32

幹線道路の24号線に突き当たり、右折する。

そして、Det Udom で左折してウボンに向かう。


■14:39

ガソリンスタンドで給油する。


★給油DATA

給油価格 840 (B)
給油量 27.4 (L)
ガソリン1L当り 31.4 (B)

前日の給油からちょうど400キロ走香した。

1L当りの燃費は、
400km÷27.4L=14.6km


■14:48

このガソリンスタンドにはAmazon が無く、Chao Sua という店があった。

そこの店のアイスコーヒー。


■15:43

24号線を右折して、2213号線に入る。

この道は一応舗装されているが、穴ぼこだらけの悪路だった。

1時間以上も走ると、本当にいやになってくる道だ。もう、走りたくない。


■16:14

やっと、217号線に突き当たる。

右折して、シリントンダム(Sirindhorn Dam)を目指す。


■16:25

シリントンダムは広大なダム湖だ。



■16:28 このダム湖には、水上レストランの筏がたくさん軒を並べている。この場所をパタヤビーチというらしい。夕食と思ったが、まだ時間が早すぎる。


■16:55

ムーンリバーの夕日。

コンチアムの橋の上から撮影。


■17:28

夕食はコンチアムのメコン沿いのレストランで摂ろう。

昼食をしっかりと食べていないので、お腹がペコペコだ。


■17:47

まずは、メコンの夕暮れを眺めながらビアシンで乾杯!

メコンを眺めタイ料理を食べながら、「yayo」と今日の出来事を話す。

そんなシチュエーションには、なかなか良いレストランだが、味が濃すぎる。

夕食代525バーツ。




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