1.バーダーミのチャールキア朝について
チャールキア朝について



チャールキア朝で建造されたバーダーミ遺跡と近郊の遺跡の地図。4つの遺跡に分けて紹介したい。





■バーダーミのチャールキア朝

●バーダーミへの行き方

レンタカーを運転して、ハンピから約140キロ、3時間程で到着。

●バーダーミのチャールキア朝(Badami Chalukya dynasty)

6世紀中頃から8世紀中頃に、インドのデカン地方のバーダーミを都として支配したヒンドゥー王朝(543年頃 - 753年)。

この王朝は、のちに成立した同名の王朝(東チャールキア朝、後期チャールキア朝)と区別するため、西チャールキア朝、前期チャールキア朝とも呼ばれている。

●チャールキア朝の美術

グプタ美術の影響の濃い西インドの石窟美術と、南インドのパッラヴァ朝美術の南北2系統の美術が混合している点に特徴があるという。


■バーダーミの歴史

バーダーミは、年表②のチャールキア朝(543年頃 - 753年)の首都である。

チャールキア朝は、6世紀中頃からプラケーシン1世の活躍によって台頭し、カルナータカ州北部のバーダーミを都としてデカン地方を支配した。

7世紀前半のプラケーシン2世は、北方ではカナウジのハルシャ王の侵入を打ち破り、南方ではカダンバ朝を屈服させ、南東方はパッラバ朝の地にも侵入したが、晩年はパッラバ朝軍に、逆に都を落とされた。

続くビクラマーディティヤ1世は王国を再建し、パッラバ朝の地深く侵入した。

その後は概して平和が続いたが、753年に封臣のラーシュトラクータ家が王位を簒奪し、王朝の支配はとだえた。


641年、プラケーシン2世の治世にバーダーミを訪れた唐の僧玄奘は、その著書である「大唐西域記」に下記の記述がある。

土地は肥沃で、農業が発展し、家臣は勇敢で主君に忠誠をつくした。

戦闘の折には、配下の兵士や象を率いる将軍が決戦の前に、宴を催し、兵士に酒を飲ませて勇を鼓舞した。

当時の習慣でもあった阿片も吸った兵士たちは、勇敢な象に乗って突進した。

敵に後れをとって敗れるようなことがあると、王は、全軍の前で、士官に女性の服を着せる罰を与えた。


■ホテル

バーダーミでの宿は、町の中心にあるクラークスイン(Clarks inn)にした。

まだ建ってから新しいホテルで、田舎町では快適な部屋だ。

しかし、このホテルのレストランはベジレストランのみでビールは無いという。


■昼食

町の西側にあるKSTDC(カルナータカ州開発公団)運営のホテル、マユラチャールキヤ(Mayaru Chalukya)では、冷えたビールが飲める。

ただし、食事はあまり美味しくない。


■酒屋

ビールはクラークスインの前の道路を北へ数百メートル行った、左側にある店で購入できる。




「バーダーミへの招待」について


2016年12月、バンガロールからレンタカーを駆って17日間ほど南インドを中心としたヒンドゥー教の遺跡巡りをした。

その時の旅行記は  に載せたが、載せきれない膨大な量の遺跡の写真が残った。

そこで、遺跡の写真を多用した「インドの遺跡シリーズ」を制作しようと思い、この「バーダーミへの招待」を作成した。

2018年10月 「ふうみん」




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イサーンの大地走行2000キロプラス バーダーミピへの招待
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