1.ハンピ遺跡と近郊の遺跡について
ハンピ遺跡について


ハンピ(HAMPI)の地図。4つの地域に分けて紹介したい。



■ハンピ(HAMPI)

●場所

・北緯15度33分、東経76度42分

・近郊の町ホスペット(Hospet)から12キロ東側にある

・レンタカーを運転して、バンガロール市内から約350キロ、6時間程で到着


●概要(2016年12月時点)

・世界遺産登録…1986年

・有料遺跡開場時間…8:30~17:30

・休み…無休、考古学博物館は金曜日

・入場料…500ルピー(王宮地区・ヴィッタラ寺院・考古学博物館と共通)


■ハンピの歴史

ハンピは、かつて年表⑧のビジャヤナガル王国(1336年-1649年)の首都であり、その面積は29k㎡とインドの文化遺産の中では最大である。

ヴィジャヤナガルは「勝利の町」を意味し、当時、デカン高原一帯のイスラム王朝が優勢な中、ヴィジャヤナガルはヒンドゥー教国として対抗した。

ヴィジャヤナガル王国は、トゥンガバドラー川およびクリシュナ川以南から、コモリン岬に至る南インド一帯を支配していた。

1565年1月にターリコータの戦い(下記参照)で、ムスリム5王国連合軍に敗北した。

ムスリム5王国連合軍は、ヴィジャヤナガル王国の首都ヴィジャヤナガル(ハンピ)に進軍した。

6か月間にわたり首都ハンピを占拠し、略奪・破壊し、逃げ遅れた多数の人々が犠牲となった。

ターリコータの戦いにおける犠牲と首都ヴィジャヤナガルの破壊は、ヴィジャヤナガル王国に大きな打撃を与えて、その衰運を決定的なものとした。

その後、ヴィジャヤナガル王国は、首都をペヌコンダ、チャンドラギリと変えて17世紀中葉まで存続した。


■ターリコータの戦い

ターリコータの戦いとは、1565年1月に行われたヴィジャヤナガル王国とムスリム5王国との戦闘で、インドにおける関ヶ原といえる。

1564年12月、ムスリム5王国は11万の軍勢でヴィジャヤナガル王国に侵攻。

対するヴィジャヤナガル王国は、15万の大軍で迎え、ターリコータで12月26日に戦いの火蓋が切られた。

戦いは約1ヶ月に渡り、1月26日にヴィジャヤナガル軍は壊滅的な打撃を受けた。

ヴィジャヤナガル軍の戦死者は、10万人にのぼるという。


■ホテル

ハンピでの宿は、考古学博物館前にあるクラークスイン(Clarks inn)にした。

2016年開業の新しいホテルで、小さいながらプールもあり、快適な部屋だ。

このクラークスインは、ハンピ村の隣のカマーラプラ村に位置する。

ハンピ村は禁酒だが、カマーラプラ村は飲酒OKだと思っていた。

しかし、レストランに行ってガッカリした。ホテルのレストランはベジレストランのみで、ビールは無いという。


■昼食

考古学博物館近くのKSTDC(カルナータカ州開発公団)運営のホテル、マュラブバネーシュワリ(Mayaru Bhuvaneshwari)では、冷えたビールが飲める。

ただし、食事はあまり美味しくない。


イッタギとラックンディ遺跡について



イッタギ(Ittagi、Itagi)遺跡とラックンディ(Lakkundi)遺跡は、ハンピ遺跡より古い上記年表⑦の後期チャールキア朝の時代のものだが、ハンピからバーダーミに行く途中にある素晴らしい遺跡なので、ここに紹介したいと思う。




「ハンピへの招待」について


2016年12月、バンガロールからレンタカーを駆って2週間ほど南インドを中心とした遺跡巡りをした。

その時の旅行記は  に載せたが、載せきれない膨大な量の遺跡の写真が残った。

そこで、大きなサイズの写真を多用した「インドの遺跡シリーズ」を制作しようと思い、この「ハンピへの招待」を作成した。

2018年8月 「ふうみん」




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イサーンの大地走行2000キロプラス ハンピへの招待
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