イサーンの大地走行2000キロプラス チャンパ遺跡への招待 INDEX
チャンパ王国について


TimeMap Project : 920年 黄色:チャンパ 紫色:ベトナム 橙色:クメール

チャンパ王国について

チャンパ王国は、オーストロネジア系(東南アジアでは他にオーストロアジア系、タイ・カダイ系、シナ・チベット系、ミャオ・ヤオ系の計5つの言語がある)の言語を話す海洋民族チャム人の国で、インド文化の影響を受けて2世紀末から17世紀にかけてベトナム中部から南部沿岸に存在した。

チャム人は「随書」に、「深目・高鼻・拳髪(巻き毛)・色黒」と書かれ、現在のベトナムの大部分を占める越族とは全く異なるマレー的特色を持つ民族である。

6世紀後半に南ラオスから勃興した真臘(クメール)は、チャンパから奪ったチャンパサック(チャンパの栄光という意味)と呼ぶ地域をクメール揺籃の地としている。あのワットプーの建立されている場所である。という事は、チャンパという国名は7世紀以前から使用されていたのだろう。

チヤンパ王国の遺跡は、ヒンドゥー教や仏教文化のもと8世紀から17世紀にかけて建立されたレンガ造りの神殿建築などが残されている。中国ではチャンパ王国の国名を、唐代まで林邑(りんゆう)、8世紀後半から9世紀前半には環王(かんおう)、宋代以降は占城(せんじょう)と呼んだ。占城とは、「チャムの都」を意味するサンスクリット語の漢訳である。

チャンパ王国は一説によると、北部の「椰子族」と南部の「檳榔族」とに別れて支配されており、両者はしばしば衝突し戦争にも及んだ。この両者の抗争が、チャンパ王国の一体性を揺るがす内的要因の一つと考えられている。

南シナ海海上貿易の雄として、中国・ジャワ・カンボジア・ベトナムなどと戦い、そして貿易や人の往来で文化交流も盛んで、特に10世紀以降アジアの海洋交易が大発展すると、チャンパは全盛期を迎えた。

しかし、チャンパ王国はバイヨンの第一回廊のレリーフで有名なクメール族との戦いや、ベトナム南部の中国系の越族「京(キン)族」との戦いでだんだんと衰退する。

そして、かろうじて地方勢力として残っていたが、17世紀に越族に滅ぼされ1500年間続いたチャンパ王国は完全に消滅した。1697年に最後の王朝の地ファンティエットが平順府(ピントゥアン)と記されたのを最後として、中国の史書からも占城の名は消える。

その後、チャム人は大陸の各地に逃れて、いくつかの拠点は機能していたらしい。アユタヤ朝の水軍は海洋民族チャム人の傭兵で成り立っていたともいう。

ベトナムに残ったチャム族はベトナムの同化政策に飲み込まれ、カンボジアに住むチャム族だけがイスラム化を深めつつ独自の文化を守ったが、それ故にポルポト政権下に大虐殺にあった。・・・なんとも、悲劇的な王国の末路である。

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