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入口から道沿いに遺跡に入って、最初に目にするのがC群とB群だ。
10世紀にシヴァ神を祀るために再建された、舟形の屋根を持つC群の主祠堂C1。 |
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C群の主祠堂C1内部。
迫り出し構造の屋蓋部分がよく分る。 |
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C群の副祠堂C7は9世紀初頭、ホアライ様式からドンジュオン様式への過度期の建物。
内部の北を向いたヨニの先には、聖水を祠堂外に流すソーマスートラ(Somasutra)の穴が開いている。 |
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宝物庫C3の連子窓。
クメールのものより小振りだ。 |
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B群の主祠堂のB1。
レンガ造りの多いチャンパ建築の中で珍しく砂岩の基壇を持っている。
この祠堂は数世紀にわたり何度も修理され、高さ24メートルの偉容を誇った。
現存する砂岩の基壇は11世紀ハリヴァルマンⅣ世により建造された。 |
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B5は、ほぼ完全な形で残っている宝物庫だ。
基壇、身舎の上にカーブした舟形屋根を持ち、壁面を埋める花葉文様は10世紀の傑作だ。 |
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宝物庫B5の壁には木造建築を意識した柱形が並ぶ。
破風装飾の下にはデヴァター(女神)像が彫られている。
すらりとした八頭身美人だ。 |
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宝物庫B5の破風装飾。
2頭のたわむれる象がレンガに彫られている。
10世紀以降は、この部分が砂岩で造られる。 |
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首のない神像。
ヨニの上に置かれている。 |
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9~10世紀に制作された柱に彫られた男性像。
大きなイヤリングをし、たくさんのネックレスをしている。最初見たときは女性像だと思った。 |
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D2に納められた踊るシヴァ神像。
D2の建造時には、木造の屋根が架けられおり、現在ここから出土した彫刻類が納められた展示室となっている。
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ヒンドゥー教の儀式でリンガに注ぐ聖水が北に向けて排水される。
その排水口のマカラ(摩竭魚・Makara)。 |
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D1に納められた踊るシヴァ神像。
上記D2の踊るシヴァ神像よりも、シヴァ神を囲む人物像が秀逸だ。 |
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川を渡って東側に行くと、A・G・E・F群がある。 |
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現在は崩れ去ったレンガの山になっているが、ここにはミーソンで一番高い28mを誇った華麗な装飾のA1の主祠堂があった。非常に残念な事に1969年に米軍の空爆で破壊された。かって、東南アジアの建造物の中で傑作のひとつといわれた祠堂は見る影も無い。
この静かで緑豊かな聖地に佇んで残骸を眺めていると、改めて戦争の悲惨さに胸を打たれる。無残!だ、あまりにも無残だ。 |
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崩れ去ったA1の主祠堂(下図)には、ヨニが置かれていた。
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ヨニに彫られたデヴァター像。 |
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A群から、聖山のマハーパルヴァタを望む。
綺麗な蝶と崩れた遺跡との対比が…何か、悲しい。 |
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A群の外れにA’1の祠堂が建っていた。
窓にはめ込まれた十字型の格子とその下のレリーフ、素晴らしい装飾の柱と纏わり付く植物。
崩壊の美に、思わずシビレた。 |
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A群から東に行くと、1157年にジャヤハリヴァルマン王に建造されたG群が丘の上にある。
残念ながら工事中で中に入れず。 |
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E群に行くと、首を取られた門衛(ドヴァラパーラ)像がポッンと寂しく立っていた。 |
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チャム彫刻博物館に展示してある、ミソンE1から1903に発掘した祭壇基台装飾西正面。8~9世紀。
この素晴らしい祭壇基台一式が、博物館に収蔵されていなかったら、米軍の爆撃で消滅していただろう。
そう考えると、フランスのしたことを一方的に非難は出来ないな~あ。 |
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E1祭壇西面中央のレリーフ「舞踏する人」は、文化・宗教表現として最高潮に達した傑作だ。
この生けるがごとき写実性、躍動感はインドのサンチー(Sanchi)美術の影響であり、均衡と調和は、グプタ(Gupta)美術から学んでいるといわれる。 |
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F群のF1の主祠堂。
屋根の下で支柱に支えられた姿は痛々しい。 |
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離れた場所にあるH群。
丘の上にあり、残された主祠堂H1の壁の一部が逆光に浮かんでいた。
この遺跡も米軍の空爆で破壊されたという… |
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