イサーンの大地走行2000キロプラス カオプラヴィハーン(プレアビヒア)への招待



Invitation to Khao Phra Viharn(Preah Vihear) タイ名…カオプラヴィハーン又はカオプラウィハーン
カンボジア名…プレアヴィヒア又はプレアビヒア


 カオプラヴィハーンの国境紛争と国境沿いのクメール遺跡


カオプラヴィハーン(プレアビヒア)
Si Sikharesuan Prasat Phra Wihan より

タイとカンボジア両国の国境線上のドンレック山脈(標高657メートル)の上に建つカオプラヴィハーン遺跡は国境紛争が絶えない。




国境紛争


カンボジア北部、タイとの国境を走るダンレック山脈にあるカオプラヴィハーン遺跡は、1904年フランス・シャム(タイ)協約によりフランス領カンボジアに帰属した。しかし、第2次大戦中からタイが占拠し、その後両国の国境紛争に発展した。

標高657mのこの寺院を含む地域は、戦略上の要地でもある。1953年カンボジアは兵員を派遣したが、タイ軍に阻まれた。両国間で交渉が重ねられたが、1958年外交関係の断絶にまで発展した。

1959年カンボジアはハーグの国際司法裁判所にこの寺院の領有問題を提訴し、1962年国際司法裁判所はカンボジアの主張を認める裁定を下した。タイは領有権を保留としながらも、裁定に服し、カンボジア側がこの遺跡の主権を回復した。


掲示板への「Shinji」さん(バンコク探険ノート)からの参考になる書き込みを紹介します



[191]  Shinji  2006/01/10 15:38:06

ちょっと前に、カオプラヴィハーンの領有についての1962年の国際司法裁判所の判決をレビューした面白い論文「Borders on the Fantastic: Mimesis, Violence, and Landscape at the Temple of Preah Vihear」を読んだのですが、やはりあれは司法裁判というよりは政治裁判だったようです。

この論文の中で著者は、「カオプラヴィハーン付近のエリアは、近代国家のエゴイズムが国境紛争を持ち込むまで、クーイ族を代表とする地元原住民の居住地だった」と指摘し、「いっそのこと、自然とクーイ族の人類学的遺産を保護する緩衝地帯にしたらどうか」という、心情的には納得できる提案をしています。

著者の推測によると、「カオプラヴィハーンの建築に実際に従事したのはタイ人でもクメール人でもなく、クメール人の指揮の下に奴隷のように扱き使われたクーイ族だった」との事で、「カオプラヴィハーンの正当な継承者はタイでもカンボジアでもなく、現在タイからもカンボジアからも除け者扱いをされているクーイ族ではなかろうか」との事です。私はこれを読んで、目から鱗が落ちる思いをしました。




[194]  Shinji  2006/01/12 17:25:44  

カオプラヴィハーンの領有についての双方の主張は、

タイ: フランスとの条約で分水嶺と決めてある。また、実際にタイ政府の実効支配下にあった。

カンボジア: フランスが作成した地図ではカオプラヴィハーンはカンボジア領となっている。タイはこの地図を入手していながら否認しなかったのだから、認めた事になる。

1919年のベルサイユ条約以降、「国境確定に関する条約の条文と付随地図に食い違いが見られる場合には、条文が優先する」という国際慣行があり、ましてやカンボジアの主張する地図は条約に付随したものではなく、一般的な用途のものでした。

こういった状況でカンボジアがカオプラヴィハーンの領有を主張し、国際司法裁判所に提訴までしたというのは、多分に当時のカンボジアの内政事情がからんでいました。すなわち、シハヌークが政治基盤を固めるためには、カンボジア国民の歴史的な反タイ感情を煽る事が手っ取り早かったのです。

タイにとっては寝耳に水の言い掛かりで、「絶対に勝つ」と楽観視していたのですが、当時のインドシナ情勢が災いしました。シハヌークはアメリカから既に相当の援助を受けていながら、「さらなる援助と支持がなければ共産中国やソ連に頼らざるを得ない」とカマをかけました。

タイは既に政治・経済的にアメリカの援助にドップリと浸かって「釣った魚」状態だったので、カンボジアを西側陣営に引きつけておくためにはカオプラヴィハーンをカンボジアに進呈するのが得策だったのです。

判決の後、タイでは全国的に激怒の抗議集会が開かれ、サリット首相は判決を拒否すると宣言しましたが、最終的にはラマ9世の助言によってカオプラヴィハーンを明け渡す事になりました。ただし、判決に対する不服と、将来の失地回復への決意を留保しました。

明け渡しの日、カオプラヴィハーンに揚げられていたタイの国旗は降ろされる事無く、旗竿に揚げられたままの状態で撤退され、そのまま博物館に収められたそうです。




[197] ふうみん  2006/01/14 10:27:01

昨晩、バンコク在住で一時帰国中の友人と飲みながら、Shinjiさんからのカオプラヴィハーン国境の政治裁判説を披露したところ、友人はすぐさま『タイとカンボジアの関係は、日本と韓国の関係と同じだ』といいました。まさに、韓国が日本に対する反日キャンペーンは、韓国の国民感情を煽り政治基盤を強固にするためと、韓国国民の経済的劣等感とそれを裏返す歴史的優越感の複雑な感情が背景にあります。

タイとカンボジアの関係をそのキーワードで考えるとまさに良く分かります。なぜ猛烈に判決に抗議しなかったのかと言う事が私にとって長年の謎でしたが、国王の助言があったのですね。当時のタイを囲む4国の内ミャンマー、ラオス、カンボジアと3国の社会主義国家に囲まれ孤立状態にあったタイとしては、最大の援助国のアメリカの意向には逆らえなかったのですね。それで疑問が解決しました。

カオプラヴィハーンの国境について私ながら調べましたが、このような明確な解説を聞いたのは初めてでした。まさに「目から鱗が落ちる」思いです。ありがとうございました早速ホームページの方でも使わせていただきます。




[599]  Shinji   2006/11/15 20:00:54

カオプラヴィハーン付近の詳細な衛星画像が手に入ったので、これまで不思議に思っていたカオプラヴィハーンの国境線についての考察をまとめてみました↓
http://www.geocities.jp/shinji_th/satelthai/projects/khaophraviharn/index.html

画像の出展はタイを拠点とする Point Asia で、数ヶ月前から Google Earth に類似したサービスを提供しています。登録(無料)が必要で、インストールの方法がやや煩雑ですが、興味のある方は次のページを参考にチャレンジしてみて下さい↓
http://www.geocities.com/satelthai/resources/pointasia/index.html

あっ、ただしタイ国外からの登録やアクセスの可否については不明です。


カオプラヴィハーン(プレアビヒア)




[1112]  Shinji   2008/07/23 15:21:15 

今回の世界遺産登録がらみの紛争で、いくつか目新しい資料が手に入りましたので、ちょっと図を描いてみました↓

【図1】
タイが原則として分水嶺に沿った国境線(黄線)を主張しているのに対して、カンボジアはフランスが1907年に作成した地図の示す国境線(紫線)を主張しています。今回問題となっているのは図のエリアBなんですが、なぜこれまでタイ政府がこのエリアをカンボジア政府の自由にさせていたのか不思議です(例:カンボジア側からのアクセス道路の建設、2003年)。報道されず一般には認知されていない政府高官同士の裏取引がいろいろとあったのだろうと考えざるを得ません。

ちなみにエリアBの両隣には、両国共に領有を主張しない(立場上主張できない)「空白のエリア」AとCがあります。ここを例えば第三国あるいは第三国人が陣取ったとしたら、タイ政府もカンボジア政府も関与できない事になります。実際にはタイやカンボジアの領土を経由してこのエリアに入ると両国の出入国法に抵触するので、合法的には領空権の及ばない大気圏外(宇宙空間)から垂直に降りてくる必要がありますが、そういう芸当はNASAやアメリカ空軍にもできないと思います。


【図1】
カオプラヴィハーン(プレアビヒア)


【図2】
カンボジアが固執している1907年の地図ですが、等高線(赤線)を比べるだけでも実際の地形とはかけ離れている事がわかります。とても国境線の画定に使えるような代物ではありません。そもそもこの地図は一般的用途のために作られたのをカンボジアが50年後に国際司法裁判所に状況証拠(の一つ)として提出し、そのまま条約付随地図として格上げ認定されてしまったものです。測量も不十分だし、緯度・経度も不正確です。カンボジアはこの地図をカオプラヴィハーン高台の先端部分でマッチングして地図上の国境線を当てはめているわけなんですが、両隣の高台が既にズレています。地図をグニュグニュと非線形に変形する事によって広範囲でマッチング制度を高める事は可能ですが、そうして得られた国境線にどれほどの意味があるのか、考えるだけでも鬱陶しいです。


【図2】
カオプラヴィハーン(プレアビヒア)


【図3】で、これが問題の地図です。国際司法裁判所がカオプラヴィハーン寺院の領有にのみ判断を下し、国境線の画定については(カンボジアの要請にも関わらず)言及しなかったというのは、技術的に無理からぬ事でした。それにしても整合性や長期的展望を考えずに安易にカオプラヴィハーンをカンボジアに渡してしまって永劫にわたる紛争の種を蒔いた国際司法裁判所の判断は、もっと批判されてしかるべしだと思います。


【図3】
カオプラヴィハーン(プレアビヒア)







タイのカンボジア国境沿いのクメール遺跡


カオプラヴィハーン遺跡だけでなく、タイとカンボジア国境沿いにあるその他のクメール遺跡も、国境問題と無縁ではなさそうです。

カオプラヴィハーン(プレアビヒア)の世界遺産登録に伴い国境問題が再燃しそうです。

あまり知られていないタイ・カンボジア国境のクメール遺跡を簡単にご紹介します。





2008年8月5日  バンコク週報 

ブンサン国軍最高司令官は8月4日、カンボジアに隣接するタイ東北部スリン県の国境地帯にある『タームアントム寺院』遺跡はタイ領であると明言し、同エリアに近づかないようカンボジア軍に警告した。

これは、同遺跡を自国領と主張するカンボジアが先に、「自国兵がこのエリアに入るのをタイ軍に阻止された」と抗議したことによるもの。

ブンサン司令官は、「カンボジア兵が侵入すれば追い返す」と明言している。なお、この寺院遺跡の位置するエリアも、カンボジアの単独申請により世界遺産に指定されたばかりの『プレアビヘア遺跡』周辺エリアと同様、国境未画定区域となっている。

文化省芸術局によれば、同局が長年にわたり管理してきたタームアントム寺院遺跡は数年前タイの国家遺産に登録されたが、カンボジア政府は異議を唱えなかった。

なお、プレアビヘア遺跡に隣接する国境未画定区域(東北部シサケート県の国境地帯)を巡っては、両国軍が対峙する事態となっているが、タームアントム寺院遺跡はそのプレアビヘアの西約140キロに位置している。




2003年1月13日  バンコク週報、日刊ニュース

タイ東部サケオ県にあるクメール時代の古い寺院の所有権をカンボジア政府が主張したとの報道に伴い、ウライワン文化相がこの寺院を訪れた。寺院の外では同相の訪問を歓迎する伝統舞踊が繰り広げられた。

外務省は、このサドックコックトム寺院に関するカンボジアの報道が事実ではないことを確認しているという。同大臣も「国境線画定については論争があるものの、寺院は国境から2キロもタイ側にあるため、タイのものであることに疑いはない」と述べた。




2005年7月8日  Shinji 、掲示板

カンボジア政府が(非公式に) Prasat Ta Muan Thom と Prasat Sadok Kok Thom の領有を主張した時に、タイ政府は、後者に対しては一笑に付したのに対して、前者に対しては「国境線は未画定である」として修復作業を中断したというのは、それだけ「微妙」な状況を認識しているのでしょう。

Prasat Ta Muan Thom への舗装道路の終点まではタイ領内である事は問題ないのですが、当の遺跡はそこからやや下り坂の斜面を歩いて到達する事になります。要するに、ここで分水嶺を越えるわけです。





地図



紹介

カオプラヴィハーン(Khao Phra Viharn)
カンボジア名プリアビヒア(Preah Vihear)

1962年、国際法廷でカンボジア領に認定されたが、これは政治的な決着と云えるだろう。
10世紀初めにヤショヴァルマン1世から、200年に渡り増築・整備したもので、この地は聖地としてクメールの歴代の王が行幸に訪れていた。
本殿のすぐ後ろは標高657mの断崖絶壁で、眼下にカンボジアの大平原が展望できる壮大なスケールのクメール遺跡である。
タークワイ(Prasat Ta Khwai)

遺跡好きのT.I.さんが大変な思いをして訪問しました。以下の写真と文章はT.I.さんからの投稿です。

国境を警備しているタイ軍の最初の基地まで車で、山の麓に飛び石状態にある第2の基地まではバイクで、そして遺跡までは徒歩で登りました。
この遺跡自体、タイ領かカンボジア領か決着がついてなく、かつ、周辺には、地雷が埋まっており、最初の基地以降は、銃器を持った軍の兵士の同行となります。
発見されて間もない遺跡で、訪問者は年間、調査目的の人も含め100人程度との事です。
タームアントム(Prasat Ta Muan Tom)

2004年、カンボジア政府は非公式ではあるが、タームアントット遺跡の領有を主張した。
11世紀に建てられたバプーオン様式のシヴァ神殿。神殿は南向きで主祠堂と2基の祠堂があるが、1基の祠堂はポルポト派により爆破された。
サドックコックトム(Prasat Sadok Gok Tom)

カンボジア内戦のポルポト派の駐屯地でタイ軍との戦闘等で遺跡は破壊された。
937年にジャヤヴァルマン4世によって建造されたが、崩壊し1057年に再建された。
歴史上貴重な碑文を刻んだ2つの石碑は特に有名。
カオノイ(Prasat Khao Noi)

2006年6月から日本政府の支援で、ポルポト派の地雷除去作業が行われている。
7世紀に建てられたタイでもっとも古い時代のクメール遺跡の一つで、11世紀に手が加えられた3基のレンガの祠堂が建っている。本物のまぐさ石はプラチンブリー博物館に収蔵。





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