カオプラヴィハーンの概要 |
カオプラヴィハーン遺跡の概要
カオプラヴィハーン( Khao Phra Viharn 又は Preah Vihear )とは |
Si Sikharesuan Prasat Phra Wihan より
タイとカンボジア国境に接し、ダンレック山脈上にあるカオプラヴィハーン遺跡は、
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ヤショヴァルマン1世(YasovarmanT、889〜910)により、10世紀初めに木造寺院として創建された。 |
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ラージェンドラヴァルマン2世(RajendravarmanU、944〜968)は、石造の祠堂と木造の祠堂を建立した。 |
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ジャヤヴァルマン5世(JayavarmanX、968〜1000)は、大祠堂と2つの経蔵を建立した。 |
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スルーヤヴァルマン1世(SuryavarmanT、1002〜1050)は、1026年に僧坊や庫裏を含む寺院を増拡し、現在の残っている寺院がほぼ建設された。 |
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スールヤヴァルマン2世(SuryavarmanU、1113〜1150)は、高官のヴァーカラに命じ増築拡大を行った。なお、スールヤヴァルマン2世はカオプラヴィハーンの完成を待って、11世紀前半にアンコールワットを建立した王として有名である。 |
実に300年に渡り増築・整備したもので、この地は聖地としてクメールの歴代の王が行幸に訪れていた。シヴァ神を主神とするヒンドゥー寺院である。なお、この地は壮大なヒンドゥー寺院が出来る500年も前から、ヒンドゥーの聖地だったと言う。
遺跡は北を正面とし、北斜面の自然の地形を利用した参道を登っていくと、塔堂、回廊、十字型祠堂と本殿があり、本殿のすぐ後ろは標高657mの断崖絶壁で、眼下にカンボジアの大平原が展望できる壮大なスケールのクメール遺跡である。 |
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カオプラヴィハーンの建築様式
カオプラヴィハーン遺跡の美術史上からの考察は、クレアン過渡期からバプーオン様式といわれる。
様式 |
年代 |
王 |
主な遺跡 |
主な特徴 |
クレアン様式
Khleang Style |
968〜1010 |
ジャヤヴァルマン5世 |
タケオ、ピミアナカス、クリアン、王宮 |
回廊が現れ、十字型塔門、八角形の側柱、控えめな装飾 |
バプーオン様式
Baphuon Style |
1002〜1080 |
スーリヤヴァルマン1世
ウダヤーディティヤヴァルマン2世 |
パプーオン、西メボン、ムアンタム、ワットプー |
豊富な装飾(花紋様)、説話を表すまぐさ石、冠の無いナーガ、レリーフは小さく区分けされ連続的にエピソードを施す |
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カオプラヴィハーンへの行き方
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ウボンラチャターニーから
ウボン市内から2178号線を南下し、ベンチャラックで2085号線に合流する。
そのまま道なりに進み24号線を突っ切り、カンターララックで221号線に合流し、221号線をそのまま南下するとカオプラヴィハーン国立公園の入口のゲートがある。そこから遺跡までは10キロほどだ。
ウボン市内から約110キロ。約1時間半。
シーサケットから
シーサケット市内から221号線の一本道を南下して終点までだ。まず、間違えようが無い。
シーサケット市内から約100キロ。約1時間10分。
ホテル
ウボン、シーサケット市内のホテルについては,
下記のサイトを参照。
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カオプラヴィハーンの全景写真と配置図
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全景写真
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配置図
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Si Sikharesuan Prasat Phra Wihan より |
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遺跡の航空写真先端の尖った部分が頂上の海抜657メートル。崖下のカンボジア平原から447メートルのまさに断崖絶壁にある。クメールの歴代の王が聖地として200年に渡り営々と建設した事が納得できる、絶好のロケーションに位置する。 |
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遺跡の配置図。下の入口が北を向いている。これはクメール遺跡では例外的で、ほとんどは南を向いて建っている。この遺跡の全長は約850メートルにも及ぶ。 |
カオプラヴィハーンの鳥瞰図と断面図
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カンボジアの100リエル紙幣の裏面に印刷された、カオプラヴィハーン遺跡の鳥瞰図。この原画はタイ国立公文書館に保管されている。
カンボジアの子供が道端で20バーツで売っていた。 |
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全景模型
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遺跡の全景模型 |
駐車場の案内所に展示してあるカオプラヴィハーン遺跡の全景模型。この模型と、上の鳥瞰図をよく見ると主神殿内の拝殿裏に中央祠堂が立っている。現在は完全に崩壊し、瓦礫の山になっている。 |
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断面図
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Preah Vihear Sri Sikharesvara より |
遺跡の断面図
・入口から第1楼門まで156メートル
・第2楼門まで320メートル
・第3楼門まで167メートル
・第4楼門まで62メートル
・遺跡の全長は850メートルにも及ぶ |
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復元想像図
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River Books Guides Preah Vihear より |
遺跡の復元想像図
第一楼門の横から、がけ下に通じる道がある。この道が古代のカンボジア方面からの王道になる。現在は使用不可。 |
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幻の遺跡
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カオプラヴィハーン遺跡が「幻の遺跡」といわれるのは、国境紛争やその後のカンボジア内戦と遺跡の地勢上の理由(軍事的要衝)により閉鎖期間が長く、遺跡が一般公開される期間が短い為と内戦時に埋められた大量の対人地雷の危険性が伴い、訪問する人も少なく「幻の遺跡」と呼ばれた。
下記に過去30年に渡る遺跡の公開状況の経緯と、「ふうみん」の訪問状況を表にした。(赤色が閉鎖、青色が公開) |
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カオプラヴィハーンの公開状況表
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年月日 |
適用 |
公開 |
「ふうみん」の訪問 |
1975 |
クメールルージュの鎖国政策により遺跡封鎖 |
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1979 |
ヘンサムリン政権。内戦突入により遺跡封鎖 |
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1992 |
内戦終結。遺跡公開 |
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1993 |
ポルポト派支配により遺跡封鎖 |
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1998.8 |
ポルポト派政府帰順。遺跡公開 |
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2001.1 |
タイ軍部によりゲート封鎖。遺跡封鎖 |
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2003.06.02 |
封鎖解除。遺跡公開 |
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2003.11.21 1回目訪問 |
2005.05.16 |
入場料の配分でもめ封鎖。遺跡封鎖 |
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2005.06.11 |
封鎖解除。遺跡公開 |
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2005.06.15 2回目訪問
2007.09.17 3回目訪問 |
2008.06.23 |
タイ側の世界遺産反対運動を受け遺跡封鎖 |
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JAHDSの活動
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2006年11月27日の日本経済新聞文化欄に、冨田洋さんの「幻の遺跡 地雷原から蘇る」が掲載された。(記事要約)
1998年に日本の非政府組織「人道目的の地雷除去支援の会(JAHDS)」が発足、日本の有力企業が人やモノを持ち寄って活動を続けてきた。
タイとカンボジア国境の山頂に建造されたアンコールワットより古い大遺跡のプレア・ビヒア(カオプラヴィハーン)寺院は、国境紛争や内戦で周辺は地雷や不発弾が埋まる危険地帯となり、人が足を踏み入れることがままならない状態で放置され「幻の遺跡」と呼ばれてきた。
2004年7月より、JAHDSがタイ・カンボジア両政府の要請を受け、両国の和解のシンボルとして寺院を共同開発することとなった。
寺院周辺の甲子園球場17個分の広大な土地から対人地雷30個、不発弾160個、釘や薬きょうなど金属片30万個を回収。総事業費2億4千万円をかけたプロジェクトは今年の夏に終了した。
新聞掲載の日に、現地では日本やタイから約800人の関係者を招き完工式が執り行われる。
冨田さんは最後にこう締めくくった。
…プロジェクトを終えたJAHDSは今日で解散し、機材や活動資金など一切をタイの財団に引き継ぐことになった。プレア・ビヒア寺院から始まった「平和の道」がタイとカンボジアの国民によって今後も築かれていくことを願う。 |
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2006年11月27日付日本経済新聞
カオプラヴィハーン遺跡に立てられた看板 |
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JAHDSとは
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人道目的の地雷除去活動を支援するために世界で初めて「企業・個人・団体」で力を合わせて結成したNGO。Japan Alliance for Humanitarian
Demining Supportの頭文字をとって「JAHDS(ジャッズ)」と呼ばれている。
「一人でも多く、地雷の被害から救おう!」という願いのもと、1998年3月に設立。平和へ続く道<ピース・ロード>を合言葉に、タイのカンボジアとの国境付近で地雷除去プロジェクト「ピース・ロード」プロジェクトを実施。
2006年9月、タイ国の遺跡「カオ・プラ・ヴィーハン」地域での地雷除去事業「ピース・ロード・プロジェクト」を完了して、JAHDSはその使命を終え、2006年11月に解散した。
JAHDSについての活動の総括と関連する報道・文献・資料は、下記サイトをご覧下さい。 → ジオ・サーチ株式会社(社会貢献) |
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ジオ・サーチの富田洋(中央)さん、小池豊(右)さんに、JAHDSの活動について話を聞く「ふうみん」 |
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