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〜アテネ五輪出場おめでとう〜
2004年3月18日。
サッカー・アテネ五輪アジア最終予選B組日本ラウンドでU−23日本代表はUAEとの最終決戦に3−0で勝ちアテネへの切符をつかんだ。3大会連続7度目の五輪出場を決めた。
〜シドニー五輪出場最終戦〜
1999年11月13日。
サッカー・シドニー五輪最終予選の日本対タイ戦がバンコクで開催されるので是非とも観戦したいと思った。
〜試合前〜
私はこの時パタヤのビーチビューホテルに滞在していた。パタヤ―バンコク間は約150キロ、日本でいえば東京―清水間にあたる。しかも道路は一般道だ。移動はタクシーを利用する事にし、ホテルの前にいつも停まっている車に交渉すると往復1500バーツでOKだった。
試合開始の3時間前(17:00試合開始)にパタヤを出発し順調に走行できたが、バンコク市内に近づくにつれて混雑が激しくなり、試合時間に間に合うかどうか心配になった。
私は日本を立つ前に、シドニー五輪最終予選の日本対タイ戦がバンコクであるから見に行ったらと、サッカー好きの長男から言われていた。
試合の情報をネットからプリントアウトして持っていたので、前日に試合会場の確認の為運転手にプリントを示してすと、試合会場がバンコク市内のタイ東急近くの国立競技場から郊外のアジア大会のメイン会場だったファアマーク競技場に変更になったという。
いかにもタイらしいが、もしもこの情報が間違っていたら、バンコクのラッシュの道路を考えると、会場間の移動に時間が掛かり、せつかくの試合が見れなくなると心配になり、ラッシユの車の中でもう一度念の為に確認すると、運転手は今日インターネットで確認して来たから間違い無いと言い切った。
いつもホテルの前で1日中所在無さそうにブラブラしている彼が、ネットを使って試合会場の確認するとは「タイも侮れないな」と思った。
〜試合〜
試合会場に着くとすでに「君が代」を演奏しており、急いで入場券を買い求めて会場に入った。入場券はVIP席で600バーツだった。
急いで指定席に着くとそこはタイ人サポーターの中だった。会場はあいにくの事に小雨が降っていたがVIP席には屋根があり試合観戦に支障は全く無かった。日本から来たと思われる日本人サポーターが5000人以上おり、タイ人の観客よりも多かった。
日本の一方的な攻撃に思わず大声を上げる私は、タイ人サポーターの中で非常に肩身の狭い思いだった。
試合は「黄金の世代」を擁する日本が6対0で一方的に勝った。試合後トルシェ監督に対するコールは非常に大きかった。新聞紙上によく「トルシェ解任」とか書いてあったが、ここバンコクでの日本のサポーターの支持は絶大だった。
〜試合後〜
サッカー好きの日本人がタクシーを飛ばしてバンコクまでサッカー観戦に行ったと言う事がビーチビューホテルの従業員に広まり、顔見知りのボーイは私を見掛る度に「ナカタ!」と声を掛けて親指を立てて親愛の情を示した。
試合中一つ分からない事あった。それは「中田」が出ていなかった事だった。ビーチビューホテルにはタイ語と英字の新聞しかなく、英字新聞に確か「中田」が出ると書いてあったと思ったが?
その疑問はすぐに判明した。「ひとりごと」の欄に[MASA]の事を書いたが、彼の海鮮レストランで夕食を摂った時、サッカー観戦に行った話をしたら、[MASA]がすかさず「中田は来なかったのですね。新聞にそう書いてありました。」と言った。私の語学力では、「来る」と「来ない」を取り違えていたのだった。
〜おまけ〜
試合会場が国立競技場から郊外のアジア大会のメイン会場だったファアマーク競技場に変更になった理由は、日本からのチケットの要望が多かったからでした。
最近、日本対タイ戦の試合を見たがあの頃よりタイが随分強くなっているのに驚いた。 |
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日本人サポーターが5000人以上おり
タイ人の観客よりも多かったと思った
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