イサーンの大地走行2000キロプラス ひとりごと
33、「有望な前途を台無しにしたタイの致命的欠陥」の記事 2009.05.09
Financial Times の5月8日付けの記事を紹介したいと思います。
「ふうみん」は恥ずかしながら、
「英エコノミスト誌が1995年に、タイが2020年までに世界第8位の経済大国になると予想した」と言う記事を書いた事を全く知りませんでした。
タイの政治・経済に対し少しでも興味を持っている者にとつては、なかなか含蓄のある内容だと思います。また、「ふうみん」自身の備忘録としても保存したいと思い、いつでも見れるようにWebの「ひとりごと」に掲載することにしました。
[ Financial Times ]

有望な前途を台無しにしたタイの致命的欠陥

2009年05月08日(Fri) Financial Times
英エコノミスト誌は1995年、タイが2020年までに世界第8位の経済大国になると予想した。

 今ではやや楽観的――と言うべきだろう――に見えるその予想が出されたのは、タイが10年間にわたって年率8.4%という猛烈な勢いで拡大し続け、中国さえをも凌いで、世界で最も急成長を遂げる経済だった時のことだ。古き良き時代だった。

 アジア金融危機後の10年間――バーツの切り下げに始まり、タクシン・チナワット元首相を失脚させた2006年のクーデターで終わった――は、それほど生易しいものではなかった。

活力を取り戻せないタイ経済

 不用意にも18カ月間でGDP(国内総生産)の15%を失った1997年の通貨切り下げからは立ち直ったものの、タイ経済が以前の活力を取り戻すことは二度となかった。タイの経済成長率は、まずまずの水準ではあるが社会を変革させるには足りない年4~5%程度をうろうろしていた。

 今年は5%程度、経済が縮小する見込みだ。この点に関しては、確かにタイに限ったことではない。それでも、なぜタイはその潜在能力をフルに発揮できなかったのか、問うて然るべきだろう。

 かつて、少なくとも興奮しやすい人々の間では、ハイテクの台湾と並び称されたタイは、今では往々にして、手のかかるフィリピンと同じグループに入れられる。世界第8位の経済大国――現在この地位はタイの6倍近い経済規模を持つスペインが占めている――に迫るどころか、33位に低迷している。

 国民1人当たりで見ると、その足取りはさらに重く、極々凡庸な78位まで低下する。国民1人当たりの所得が2000ドル前後のインドネシアなどは上回るものの、台湾の1万7000ドルを大幅に下回る3851ドルしかないのである。

 その苦しみをさらに大きくしている――あるいはその苦しみを説明する助けになると言える――のは、タイが一見したところ解決困難な政治的危機にはまり込んでいることだ。

深刻な政治危機

4月にはタクシン派支持者たちの大規模デモで、ASEANの首脳会議が全面中止に追い込まれた〔AFPBB News〕
 長年クーデターとクーデターに対抗する歴史を繰り返してきたタイだが、それでもここ何年間かは、何とか政治的安定に近い状態を維持していた。

 それが今は、かつて選挙権を剥奪されていた農村部の貧困層が、今もまだ「野蛮人」が門から入ってくるのを認める気がないバンコクのエリート層が支配する政府体制の中で発言権を求めるという大きな落とし穴にはまり込んでいる。

 こうした膠着状態が、既に不安定な国内外の投資家の信頼を損なってきた。

 タイは4月、東南アジア諸国連合(ASEAN)会議に出席しようとしていた当惑顔の各国指導者に、政治的混乱を露呈した。鮮やかな色のシャツを着た、暴徒化したタクシン派支持者が会場に乱入した後、サミットは中止され、中国の温家宝首相らは避難を余儀なくされた。

 その後バンコク市街で起きた衝突では、少なくとも2人が死亡した。2007年に表向き民主主義が正常な状態に戻ってから3人目の首相となるアピシット・ウェチャチワ氏を乗せた車は、首相が非常事態を宣言した後に攻撃を受けた。

アピシット首相は4月下旬、本紙(英フィナンシャル・タイムズ)とのインタビューで、感心するほど控えめな表現で、「我々には立ち向かわなければならない大きな課題がいくつかある」と語った。

 タイがかつて予想されていたように繁栄できなかった理由の1つは、その成長が思ったよりも弱い基盤の上に築かれていたことだ。

思ったより弱い基盤の上に築かれていた経済

 1950年代には米国の支援やコメとタピオカの輸出に基づいた経済だったものが、1980年代半ばの円切り上げ後に海外に拠点を求めていた日本の資本に後押しされる経済へと発展を遂げた。日本企業は資金をつぎ込み、自動車をはじめとした産業基盤を築いた。それは、どのようなものであれ、今もタイが享受する経済的成功の中核を担うものだ。

 1980年代から1990年代初頭にかけては、地元の起業家たちが、力をつけた地元銀行システムから資金提供を受け、昔からのコネを利用して、時流に乗って台頭した。

 政治状況は常に混乱を極めていた。1932年に絶対君主制が終焉してから、18回のクーデターが試みられ、そのうち11回が成功した。だが、パトラ証券のエコノミスト、スパウット・サイチュア氏によると、大部分の期間において、君主、軍部、貴族、官僚の間で不安定な均衡が保たれていた。

 タイが輩出した企業に真に世界クラスと呼べるものはほとんどない。タイはおしなべて、外資から資金提供を受け、外国の専門技術によって発展する、いわば「レンティア経済」のままだった。

 もちろん、当時はそれが時代の潮流だった。1991年には、世界銀行と国際通貨基金(IMF)がタイで年次会議を開催し、タイの開かれた経済と自由主義的改革の証しとなった。それで、タイはすっかりのぼせ上がってしまった。1993年には徹底的に改革を推し進め、資本取引を自由化し、1997年のバーツ暴落で幕を閉じることになった、壊滅的な外貨建ての過剰借り入れに道を開いた。

 その通貨危機が、パースック・ポンパイチット氏とクリス・ベーカー氏がその著書『Thailand’s Boom and Bust』の中で、「タイの(外貨債務を抱えた)資本家層の斬首」と呼ぶ状態につながったのである。

見えない将来展望

 タイが大量斬首から立ち直ることは二度となかった。現在、銀行の企業向け融資は1990年代の水準の3分の2に減少している。経済はより外需依存度の高いものになり、これが、消費者が不安を抱く世界でタイの足を引っ張る重荷になっている。GDP比で見た貿易の割合は、1997年の80%から150%に増加している。

 タイの起業家層が破壊されたことで、通貨危機を生き延びた数少ない資本家の1人であるタクシン氏のために道が開かれた。タクシン氏は、電話事業の独占によって築いた自らの富を政治資本に変え、新たに権利を与えられた農村貧困層の投票によって政権を奪取した。

 タクシン氏の首相当選とその後の言動は、それまで権力を分かち合うことなど考えもしなかったバンコクのエリート層にとってやり過ぎであることがはっきりした。彼らの不満は、ついに2006年のクーデターで噴出した。

 このクーデターは、タイを転落前の微笑みの国に戻す試みだった。だが、後戻りはできない。かといって、どのようにすればタイが前進できるかも、残念ながらまだはっきりしないのである。


日本企業が多く進出している、シラチャの飲食街



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