イサーンの大地走行2000キロプラス ラオスと飛鳥の謎の石造物考
目 次 1、プロローグ
2、出水の酒船石
3、ソーマスートラとは
4、岡の酒船石
5、ワットプーのワニ石
6、海のシルクロードとチャンパ
7、邪馬台国とヒンドゥー教
8-1、飛鳥の謎の石造物(邪馬台国の時代)
8-2、飛鳥の謎の石造物(斉明天皇の時代)
9、エピローグ
2010年7月作成
2011年8月加筆



、プロローグ
…NHK「ワンダー×ワンダー」の衝撃


2010年5月29日(土)、夜8時から放映された、NHKの「ワンダー×ワンダー 京都天下無双の別荘群」を見ていたら、何と、京都の南禅寺にある「野村碧雲荘」の庭に飛鳥の謎の石造物である、「出水の酒船石」が庭石として使用されていた。

「出水の酒船石」は、1916年(大正5年)、明日香村大字岡字出水ケチンダの水田から二つの石造物が発見された。洋ナシを半裁した形状の石(長さ2.2m、幅1.7m)と、細長い石(長さ3m、幅0.3m)の二つからなり、岡にある「酒船石」と区別するため「出水の酒船石」と呼ばれている。

「ふうみん」は22年ほど前に飛鳥の石造物を見学した時、この、「出水の酒船石」について何処に行ったか興味を持ち調べてみたが、京都の個人所蔵とだけしか分らなかった。

その当時は今の様にインターネットなどは無く、そのまま諦めるしかなかったが、今回インターネットで調べると「出水の酒船石」の発掘当時の写真があり、しかもレプリカが飛鳥資料館で見学できるという。

「ワンダー×ワンダー」の映像では、出水の酒船石は「野村碧雲荘」の庭園の樋として使用されていた。この映像を見た瞬間、この石はヒンドゥー教の「ソーマスートラ(聖水の流れる溝)」だと直感した。

発掘当時の出水の酒船石の写真を見ていただきたい。この洋ナシを半裁した形状の石はまさにヨニ(女陰)ではないか。この上にリンガ(男根)の石を置けばヨニとリンガのセットになり、その先の樋型の石は当然ソーマスートラとなる。

「出水の酒船石」がヒンドゥー教の「ソーマスートラ」なら、あの、「岡の酒船石」もヒンドゥー教に関係ある石では?と連想した。

…ということは、「岡の酒船石」と同じように大きな石に凹状に彫り込んだ謎めいた石で、見学時から気になっていたラオスのワットプーにある「ワニ石」もヒンドゥー教に関係あるのでは?と、思った。

ワットプーのあるチャンパサックは5世紀頃からクメール(真臘)の揺籃の地だが、それ以前はチャンパが支配していた。そのクメールもチャンパも同じヒンドゥー教を信仰していた。



2007年秋、ラオスのチャンパサックにある世界遺産ワットプー(Wat Phou)を見学した時、本殿の北側に奇妙な形をした石があった。通称「ワニ石」といい、大きな石にワニ?のような形が凹状に彫り込んであった。

その石を見た瞬間、「ふうみん」は飛鳥にある「岡の酒船石」を連想し、旅行記の「第11部 ラオスひとり旅」に以下のように書いた。

ワニの岩。人身御供に使用されたと言う。「ふうみん」はこの岩を見て、日本の飛鳥にある「酒船石」を思い出した。

また、ワニ・人身御供と言うと「因幡の白兎」の説話を思った。皮をむかれた白兎=人身御供と考えると、千数百年の時空を越えて遡る日本とラオスの関係は?…と、想像するだけでも楽しい。



「ふうみん」はここ数年来クメール遺跡に興味を持ち、タイ、カンボジア、ラオスにまたがり、かなりの数の遺跡を巡った。また、今年もチヤンパの遺跡をベトナムで巡ったが、「ワニ石」のような謎めいた石には、ついぞ巡り会わなかった。

調べるほど、考えるほどに「ワニ石」、「酒船石」の謎は深まるばかりだ。そこに、NHK「ワンダー×ワンダー」の手がかりになる映像を見て、早速休暇を取って飛鳥に謎の石造物に会いに出かけることにした。




NHKの「ワンダー×ワンダー 京都天下無双の別荘群」


野村碧雲荘の出水の酒船石


発掘当時の出水の酒船石(1)


発掘当時の出水の酒船石(2)


ラオスの世界遺産ワットプーの地図





、出水の酒船石
…飛鳥資料館のレプリカ


飛鳥資料館に組み立てられた、下から「出水の酒船石」、「車石」、「岡の酒船石」のレプリカ。

細長い石。これをソーマスートラ(聖水の流れる溝)と考える。
洋ナシを半裁した形状の石。発掘当時の出水の酒船石の写真を参考にするとヨニと考える。この様な埋められた形でなく祠堂の中心に置かれ、丸く彫られた部分の上に自然石に少し手を加えただけのリンガが置かれていたのだろう。

まさにヨニとソーマスートラのセットだ。ヨニの上に置かれたリンガは何処かに持ち去られたのだろう。
下記に熊野本宮大社に安置された大黒石(リンガ)の写真を掲載した。
「車石」と呼ばれ、1935年(昭和10年)に岡の酒船石から南へ10mほど行った所で発掘された。中央に車輪の跡のような溝が彫られた石。

「車石」は「出水酒船石」と「岡の酒船石」を結んでいるが、「出水の酒船石」とは別の組み合わせだと思う。
熊野本宮大社に安置された大黒石。大黒天=シヴァ神であり、これは自然石のリンガであると考える。このようなリンガが上記のヨニの石の上に載せられていたのだろう。 タイのタームアントム(Ta Muen Tom)遺跡のリンガ。自然に露出した岩肌をリンガに見立てて祠堂内に祀られている。何もリンガは棒状の独立した石造物だけとは限らない一例だ。





、ソーマスートラ(Somasutra)とは


ヒンドゥー教の灌頂(かんじょう)の儀式において、ヨニ(女陰)の上にリンガ(男根)が安置され、そのリンガの上から聖水がかけられ、流れ落ちた聖水はヨニを通る。(ヨニの上部の嘴形の部分、または地下を通る2通りの様式がある)

そして、ソーマスートラを経て北側の外部に流れ出る。その排水口の先端にはマカラ(摩竭魚・Makara)が彫られている場合が多い。

このリンガはヒンドゥー教の破壊と畏怖の至高神のシヴァ(Siva)の化身であり、ソーマスートラがあるという事はすなわちシヴァ神殿といえる。

通常、祠堂内の中心にはヨニが置かれ、リンガはそれを貫く形で屹立している。ここで大変重要な事は、祠堂内は大いなる子宮の中であり、神々の合体により万物を生み出す聖なる空間といえる。…我々はリンガとヨニの結合を子宮内から眺めている事になる。


リンガとヨニの構成図


ヨニの最深部リンガを支える Deposit Stone。


タイのパノムルン(Phanom Rung)遺跡のリンガとヨニ。リンガにかけられた聖水は、ヨニの下から地下を通って主祠堂の外に流れ出た。


パノムルン遺跡の主祠堂の外にあるソーマスートラ。建造時には地下に埋められいた。


上記ソーマスートラの発掘時の写真。建造時には地下に埋められていた。その中を通った聖水は塀の外に流れ出た。





、岡の酒船石


岡の酒船石。東西5.5m、南北2.3m、厚さ約1mの花崗岩。上面に円形、半円形のいくつかのくぼみとそれを結ぶ溝が刻まれている。酒を造る道具、あるいは薬などを造るための道具とも言われ諸説あるが定かではない。
北と南側が欠けているが、この部分には石割用の工具である石矢が打ち込まれた跡があり、高取城を築く際の石垣に転用されたといわれている。実際の大きさは今の1.5倍ほどあり、円形に近かったと思われる。


松本清張は小説「火の路」の主人公の若い研究者高須通子に、「岡の酒船石」は古代イラン(ベルシア)のゾロアスター教の「ハマオ酒」の製造装置であったとの「説」を述べさせている。

・ハオマ(Haoma)酒とは…ゾロアスター教において重視される神酒。ハオマ酒はヒンドゥー教のソーマ酒に対応し、エクスタシー症状、あるいは幻覚症状を起す要素があったと考えられる。 ハオマ草を搾って造る酒であると伝えられるが、早くからその実物は手に入らなくなったようで、儀式ではザクロの枝などで代用されている。



酒船石について「火の路」の中で、下記のように述べている。(右図参照)
「酒船石」は当初から現位置にあったとみられる。下の地面が版築され、前部の下にかました台石が同じ石材である。
石の表面の傾斜度は西に向って約5.5度である。これは、液体を流す場合かなりゆっくりした速度になる。
西端の円形凹所(欠損)はそこに流れてきた水液を、その直ぐ南横の一段下になっている石にある胡瓜形の凹所で受ける。

そして、松本清張は「岡の酒船石」の建造年代は7世紀の斉明天皇の治世下という。
「火の路」(上・下) 著者 松本清張

1973年6月から1974年10月まで477回にわたり朝日新聞に掲載され、最初は「火の回路」と題されていたが、文芸春秋から出版時に「火の路」と改題された。


「火の路」より、酒船石の側面図

「岡の酒船石」について、ハオマ酒と同じヒンドゥー教の「ソーマ酒=アムリタ」の製造装置で建造年代は3世紀の邪馬台国の卑弥呼の時代と考える。…その理由については後述する。





、ワットプーのワニの石


ラオスのチャンパサック県にある世界遺産、ワットプーにある「ワニ石」と呼ばれる謎の石。この石の凹形の中に生贄の人間が入れられ「人身御供」に供されたとの言い伝えがあるが、確かめるすべは無い。また、文献等の資料などは浅学にして知らず。
この石は主祠堂から100mほど北側にあり、近くには同時代に加工された石が散乱しているが、これは崖崩れによるもので、ワニ石の建造当時と現在の位置は多少ずれていると考える。
この地には5世紀にクメール族(真臘)が進出したが、それ以前の3世紀頃からはチャム族のチャンパ(林邑)の領域だったという。


ワニ石。(崖崩れで斜めになっているが元は水平と考える)
赤丸の円形の部分が3ヶ所ある。ここに重要な原材料が置かれたと思われる。
黄丸の石の真ん中の箇所はかなり磨り減っている。
青丸の向って右側の足?の部分の先に外側まで続く溝があり、左側には無い。
尻尾の先から外側に溝がつながっている。
岡の酒船石。(詳しくは上記酒船石の図参照)
赤丸の円形の部分が3ヶ所ある。ここに重要な原材料が置かれたと思われる。
黄丸の石の真ん中に小判型の箇所がある。
青丸の向って右側だけに円形の箇所があり、左側には何故か無い。
西端の円形箇所の先は外側に流れる。


ワニ石の近くにあるヘビ石。チャンパ初期のまだ技術的に稚拙で土俗的なナーガ石像。ナーガ信仰の始まりか? 飛鳥にある三輪神社は大物主神を祀る。大物主神は蛇神であり、蛇神=ナーガである。

ワニ石と酒船石は見た目は異なるが、基本的な構造は同一と思考する。ということは、二つの石は同じ目的で造られた凹状に加工された石。
これは、ヒンドゥー教のソーマ酒(アムリタ=不老不死)の製造装置と考える。





、海のシルクロードとチャンパ


紀元前後から、金、香料、真珠、象牙などを求めて、インド人が東南アジアに頻繁に来航していた。中国側の資料からもその事は裏づけられている。それに伴いヒンドゥー教はインドから「海のシルクロード」を経て、インドシナ半島に伝わった。

インドの影響下、1世紀の初めタイ湾に面した扶南が2世紀にはインドシナ東岸チャンパ(林邑)が建国された。両国ともヒンドゥー教とインド文化を受容した。

中国の資料から、チャンパは192年日南群に区連(くれん)により建国されたといわれる。東南アジア側の資料は1884年にベトナム南部のニャチャン付近で発見された「ヴォカイン石碑」が最古であり、この石碑は4世紀後半のものといわれる。ということは、3世紀頃のチャンパの状況を示す資料は皆無である。

チャンパの前身のサーフイン文化の頃からこの地域に伝えられていたヒンドゥー教は、チャンパにおいて古くからあった巨石信仰といったアニミズムと結びつき、リンガ(男根)信仰へと独自の発展を遂げた。この当時、後世のような芸術性豊かな石像はまだ現れず、稚拙なものであったろう。

また、為政者にとってヒンドゥー教のカースト制度は、自らの権威を高めるため非常に都合の良い身分制度であり、インド文化受容の理由の一つだったのだろう。


TimeMap Project : 210年

赤い矢印の線は「海のシルクロード」を示す。2世紀頃から南シナ海のモンスーンの周期性が航海にとりいれられ、海洋交易が爆発的に発展する。海洋民族のチャム人が黒潮の流れに乗って日本列島に来日していた可能性は大きいと考える。

なお、3世紀ごろチャンパはワニ石のあるワットプーの地域を支配していたという。海洋民族といわれるチャンパだが、香木などで森の民も必要とした。チュオソン山脈を越えてワットプー地域との結びつきは古くからあったと思う。


ホイアンにある「サーフイン博物館」の展示物。サーフィン様式の耳飾はフィリピン、タイ、マレーシアからも出土する。 ダナンの沖合いにあるチャム島(Cu Lao Cham)。「海のシルクロード」の起点となった。

紀元前1000年頃からベトナム中部ではサーフィン文化(Sa Huynh)が栄えた。稲作をともなう金属文化でヒンドゥー教を信奉し、チャムパの前身ともいわれる。
海のシルクロードを経て、チャンパから金、香料、真珠、象牙などともに、ヒンドゥー教は日本列島に伝播し3世紀には邪馬台国に伝わった。





、邪馬台国とヒンドゥー教


邪馬台国=三輪山近くの纏向遺跡
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命=ヒンドゥー教
邪馬台国(やまこく、と読むと考える)は三輪山近くの大和盆地にあった。「ふうみん」は、九州の宇佐神宮に卑弥呼の墓があるという説を以前支持していたが、現在は大和説を支持する。
卑弥呼は天照大神(あまてらすおおみかみ)=倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)と同一と考える。
後漢の霊帝の光和年間(178年~184年)、倭国は乱れ何年も攻め合うに及んで、卑弥呼という一人の女子を共立して王とした。卑弥呼には夫が無く、鬼道を用いてよく衆を惑わした。
鬼道=ヒンドゥー教の教義、ソーマ酒。
卑弥呼の墓は箸墓(はしはか)古墳。倭迹迹日百襲媛命は三輪山の大物主神(大国主神と同一)の妻となるが、大物主の本体が蛇(ナーガ)であることを知って驚き倒れ、箸が陰部(ほと)に刺さって死んだとされる。
これは、箸(リンガ)が陰部(ヨニ)に刺さって死んだと解釈すると、ナーガ族との騒乱の中でリンガとヨニが安置された卑弥呼の神殿が破壊され、卑弥呼はその混乱の中で死に至った。
三輪神社は大物主神(おおものぬしのかみ)を祀り、日本神話の時代から存在する日本最古の神社とされている。蛇神(ナーガ)や酒造りの神(ソーマ酒)というヒンドゥー教の要素を持つ。
シヴァ神の別名はマハーカーラ(Mahakala)、漢訳で「大黒」。音読みすると「だいこく」。大黒天=大国神主はシヴァ神になる。
卑弥呼は「鬼道」で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)。これは酒船石で製造した「ソーマ酒」を使用し、エクスタシー症状や幻覚症状を起した。天照大神の天岩戸隠れの神話はまさにこの状況を表現している。
天岩戸に隠れた天照大神を戻すため、天鈿女神(あめのうずめのかみ)が舞いを始める。手には男性器をかたどった日矛(リンガ)を持ち、集まった神々を踊りの世界へと誘い会場が盛り上がってくると、乳房を露出し、さらに腰の紐をほどいて衣を下げ女陰(ヨニ)をあらわにした。
邪馬台国は卑弥呼の死後(248年頃・皆既日食が原因?)、男の王が立つが、国が混乱し千人余が死んだ。そこで卑弥呼の宗女壹與(とよ)を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定し、ヒンドゥー教の信仰、祭祀は継続した。


神武天皇=崇神天皇の東征、ヤマト王権
国譲り神話、邪馬台国(ヒンドゥー教)の一掃
3世紀後半、神武天皇は九州の日向の国から東征し、壹與の治める邪馬台国を倒しヤマト王権を樹立した。これが、国譲り神話(出雲の大国主神が天孫瓊瓊杵尊に国土を献じた物語)となった。
出雲大社は大国主神の怨霊を恐れたヤマト王権が、大国主神霊をなだめ封じ込めるために造った神殿で、日本で最大の建造物に祀られている。
「雲太和二京三」の故事で有名。出雲大社は32丈(96m)もあった。
神武天皇=崇神天皇と考える。諡号の御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)から、崇神天皇と神武天皇は同一人物と見る。
崇神天皇は八咫烏(やたがらす)の道案内により熊野から入り、激戦の末長髄彦(ながすねひこ)を倒した。八咫烏に道案内させたということは、八咫烏は邪馬台国の内情に詳しい出雲系の種族だといえる。
八咫烏はガルーダ、長髄彦の「なが」はナーガであり、ヒンドゥー教を信仰する出雲族の内紛が原因で八咫烏は崇神天皇側に付いた。
崇神天皇によるヤマト王権樹立により、大和の地からヒンドゥー教は一掃された。残された、唯一ヒンドゥー教を崇拝した八咫烏の一族も改宗したのだろう。これにより、飛鳥のヒンドゥー教関連の石造物は放棄され、そして、いつしか忘れ去られていった。






卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳。この後円部の大きさは直径約160mであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致する。


箸墓古墳墳形図(宮内庁)。葺石が後円部で見つかっているが、前方部にはない。また、前方部と後円部のつながりが不自然である。ということは、最初は円墳だったが後世に前方部を造りたして前方後円墳にしたと考える。


奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定
(朝日新聞:2009年5月29日の記事より)
古墳時代の始まりとされる箸墓(はしはか)古墳が築造されたのは240~260年という研究を国立歴史民俗博物館がまとめた。放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろとされる卑弥呼の死亡時期と重なる。
「魏志倭人伝」など中国の史書によると、卑弥呼は2世紀末~3世紀初め、それまで戦乱を繰り返していた倭国(わこく)の国々が共通の女王として擁立。邪馬台国に都を構え、239年には中国・魏王朝に使者を送って皇帝から「銅鏡百枚」を贈られた。
全長280メートルの前方後円墳である箸墓は、最大でも110メートルだったそれ以前の墳丘墓とは規模が大きく違う。魏志倭人伝にある卑弥呼の墓と、箸墓の後円部の大きさが近いことなどから、古くから箸墓を卑弥呼の墓とする考えがあった。
歴博は全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定。その結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240~260年に絞り込んだ。


三輪神社境内にある末社の天皇社。崇神天皇を祀ってある。


出雲大社 八咫烏 ガルーダとナーガは天敵だ

邪馬台国は大和の三輪山近くにあり、女王「卑弥呼」はヒンドゥー教の祭祀を用いた「鬼道」で国を治めていた。そこに酒船石で製造したソーマ酒の果たす役割は大きかった。
崇神天皇によるヤマト王権樹立(神武東征)により邪馬台国のヒンドゥー教は一掃された。関連する飛鳥の石造物は放棄され、そして、いつしか歴史の彼方に忘れ去られていった。





8-1、飛鳥の謎の石造物
…邪馬台国時代の石造物と考えるもの

益田の岩舟

益田の岩船。東西約11m、南北約8m、高さ約4.7m(北側)の台形状で、上部から側面にかけて幅1.6mの溝が東西に掘られている。この溝に一辺1.6m深さ1.3mの方形の穴が1.4mの間隔を開けて二つくり抜かれており、岩の重さは約160トンと推測される。
天長2年(825年)、益田池の造築を讃えた空海の書による巨大な石碑の台石で上にのっていた碑は、酒船石と同じく高取城を築く際の石垣に転用されたといわれている。


カンボジアのブリアカーン(Preah Khan)遺跡の三連のホゾ穴を持つヨニ。ヨニのホゾ穴は何も一つは限らない。 タイのパノムルン(Phanom Rung)遺跡の二連のホゾ穴を持つヨニ。

益田の岩船はヨニで、ホゾ穴には二基の巨大なリンガが建っていたと考える。巨大なヨニとリンガは太陽に輝き、邪馬台国の人々に卑弥呼の権威をより一層高める役割を果たした。
邪馬台国が滅び、リンガとヨニの意味が分らなくなった平安時代初期に、リンガ部分は益田池増築の記念碑碑として転用され、その後、高取城を築く際の石垣に転用された。


亀石

亀石。長辺4.3m、短辺2.7m、高さ1.9mの花崗岩製。石の向って右下側に石矢の跡があるところから、この石も切り取られて高取城の石垣に転用された為に長細くなっている。よく見るとこれは、亀の顔では無く蛙に似ている。 ベトナムのダナンにあるチャム彫刻博物館のガルーダの石像。「ふうみん」は亀石は彫りかけのガルーダ像ではないかと思う。


弥勒石とマラ石

弥勒石。高さ2m、幅1m。地蔵菩薩を思わせる形状をしている。詳細に眺めると不気味な形をしており、磨耗が激しく判然としない。
マラ石。高さ1.3m、幅0.7m。男根を思わせる石が斜めに突き立っている。マラ石の断面図を見ると、地中部分が四角形になっているところから、リンガと考える。


猿石と同種類の石

山王権現。高さ1.3m、最大幅1m、最大厚0.8m。


僧。高さ1.1m、最大幅0.8m、最大厚0.7m。


女。高さ1m、最大幅0.7m、最大厚1m。


男。高さ1m、最大幅0.9m、最大厚0.6m。


上記4体の猿石は、吉備姫皇女王墓内にある奇石。門には鍵が掛けられて中には入れない。


二面石。高さ1.2m、最大幅1.2m、最大厚0.5m。橘寺境内にあり、猿石と同時に掘り出されたと考える。


猿石(レプリカ)。高さ0.9m、最大幅0.7m、最大厚0.7m。高取城にあり、元は猿石と同時に掘り出されたと考える。 人頭石(レプリカ)。高さ1m、最大幅0.8m、最大厚1.1m。光永寺の境内にあり、手水石に転用されている。猿石と同時に掘り出されたと考える。

上記の飛鳥にある謎の石造物については、色々と調べたが他に類似の物を見出せず「謎」は深まるばかりである。(2010年12月8日、ラオスのパクセにあるチャンパサック歴史博物館にて、下記の石像を発見した。まさに二面石だ!…やはり、飛鳥とチャンパサックの関連を示す証拠の一つであろう。↓)
「猿石」については、後側にも奇怪な顔が彫られている場合が多い。右の写真は山王権現の後側に彫られた像。
これは、ソーマ酒を飲みその幻覚症状の中、いわゆるトリップした状態で職人により彫られ、ソーマ酒を飲む神殿の周りに置かれた。儀式に参加した人々は幻覚症状の中で、この石像が美しく見えたのだろう。


2010年12月8日、ラオスのパクセにあるチャンパサック歴史博物館にて
博物館の片隅に置かれた石像群を見て驚いた!これは飛鳥にある、「謎の石造物」と同じではないか!
「謎の石造物」は後側にも奇怪な顔が彫られている場合が多い。この博物館の石像も後ろに何か彫られている。やはり、チャンパと飛鳥に関連はあったのだ。


一番右側の像。背面に彫られているのは
3頭の象のようだ。ということはインドラ神か?
右から二番目の像。こちらの像はとても奇怪だ!
まさに飛鳥の石造物にそっくりだ。





8-2、飛鳥の謎の石造物
…斉明天皇時代の石造物と考えるもの

亀形石造物、小判形石造物

亀形石造物、小判形石造物。平成12年に発掘が行われ発見された。2つの石は水槽になっており、水を溜めたと推定される。
亀形石造物は花崗岩で作られ全長2.4m、幅2m。頭や尻尾、足が造形されている。頭の部分の穴から水が入り、尻尾の穴から流れ出た。小判形石造物は長さ1.7m、幅1m。同じく水が貯められるようになっており、排水口は亀の頭に繋がっている。



須弥山石と石人像

須弥山石(レプリカ)。1902年、明日香村石神の田から発掘された(石神遺跡)。浮き彫りがほどこされた石を3段に積み上げられた噴水装置だが、本来は4段ないし5段であったと推測されている。日本書紀には、斉明天皇が外国からの使者を迎えて須弥山石のもとで饗宴を開いたことが記されており、文献と一致する唯一の石造物。
石人像(レプリカ)。1903年、須弥山石と同じ場所から発掘された石像。男性の足元から口まで内部に細い管が通り、途中で女性の口にも分岐していることから、噴水施設であったと推測されている。衣装は飛鳥調のものであるが、風貌から男女のモデルをペルシャ・インドに求める説もある。

斉明天皇(在位655~661年)は、日本書紀に「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)と表現されており、造営と狂心の土木工事時代だった。飛鳥池遺跡の亀形石造物は、卑弥呼の時代の酒船石の施設とソーマ酒の言い伝えがまだ残っており、同じ女帝としての対抗心から熱心に土木工事をしたのだろう。それでなくては、日本書紀に「狂心の渠」などと書かれるはずは無い。





、エピローグ


NHKの「ワンダー×ワンダー」で「出水の酒船石」を見てから色々と調べ始め、話は3世紀の卑弥呼の時代まで遡った。その時代に、チャンパから海のシルクロード経由でヒンドゥー教が伝播し、卑弥呼の「鬼道」に用いられた。と、自分ながらの結論を出した。

「岡の酒船石」はヒンドゥー教の神酒(ソーマ酒)を造る製造装置で、ラオスのチャンパサックのワットプーにある「ワニ石」も同じ用途の石だった。ソーマ酒=アムリタ=不老不死ということで、日本の古代の「不老不死」の事を中国の文献から調べると、

■司馬遷の「史記」によると、BC219年、徐福は秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受けて、3千人の童男童女と百工を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢」を得て王となり、戻らなかったという。

日本における徐福伝説は、九州から中四国、紀伊半島、富士山周辺、北は青森の各地に及ぶ。「徐福は大陸から不老長寿の仙薬を探し求めて、この地に来た」との言い伝えが共通している。

■王充が著した「論衡」(ろんこう)によると
周の時、天下太平にして、倭人来たりて「暢草」を献ず。
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は「暢草」を貢ず。
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は「鬯草」を貢す。
*「暢草」とは、酒に浸す薬草と思われていた。暢草=不老不死=ソーマ酒の原料と考える。



紀元前のころから、日本=薬草=不老不死=莱。
莱(ほうらい)とは、古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれている山で、日本は蓬莱というイメージが中国を始めとして東南アジアに広まっていたのではないか。それが、チャンパなどの海洋民族の渡来した一因だったかも知れない。

ともあれ、「ワンダー×ワンダー」から始まった古代への旅は知的冒険心を満たし歴史の面白さを再認識出来た楽しい時間でもあった。

最後に、飛鳥を調べていたら三輪山と大和三山の「謎」に出会った。…また楽しい時間が始まるな~あ。
徐福伝説の最北の地。青森県津軽半島小泊村権現崎の碑。


57年、後漢の光武帝が「倭奴国」に与えた金印。


卑弥呼が魏から贈られたといわれる「三角縁神獣鏡」。






飛鳥にはいろんな謎がいっぱいだ!



イサーンの大地走行2000キロプラス
イサーンの大地走行2000キロプラス ラオスと飛鳥の謎の石造物考