三内丸山遺跡
(02-01)


「三内丸山遺跡」は、青森県青森市大字三内字丸山にある、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡。沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。1997年3月5日、国の特別史跡に指定。

本格的な調査は、新しい県営野球場を建設する事前調査として1992年から行われた。その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、1994年には直径約1メートルの栗の柱が6本見つかり、大型建物の跡とも考えられた。 これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。

その後、資料館を作って整備を行い、1996年には六本柱建物跡においては湿度を一定に保った保存ドームを作り、柱の現物は他の場所に保存しレプリカを代わりに元の場所に置くなどの措置を行った。

2021年7月27日、国際連合教育科学文化機関により、「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。

ウィキペディア(Wikipedia)より


・見学日 1998年3月31日


「三内丸山遺跡」が公開されて数年しか経っておらず、遺跡は整備途上の感がした。

家人と次男の3人で見学した。


「六本柱建物跡」


現在まで三内丸山遺跡で検出された遺構の中で最も重要視されているものである。

その柱の大きさで評価されることも多いが、それとともに注目すべきは、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されていることである。

これはその当時既に測量の技術が存在していたことを示すものであり、ここに住んでいた人々が当時としては高度な技術を持っていたことを示すものである。

特に4.2メートルというのは35センチメートルの倍数であり、35センチメートルの単位は他の遺跡でも確認されているので、「縄文尺」とも言うべき長さの単位が広範囲にわたって共通規格として共有されていた可能性が考えられる。

さらに、これほど大規模な建造物を建てるには多くの労働力を必要としたはずであり、集落居住者の団結力と彼らを的確に指導できる指導者がいたことも推測できる。

また、柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術が施されており、長い間腐食を防ぐことのできた一因となっている。

柱は栗の木でできており、この柱は2度ほど内側に傾けて立てられていた。現代の内転(うちころび)と同じ技法。


復元された「大型竪穴建物」


長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼ぶ。

三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっている。

集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説がある。


「復元された掘立柱建物」


地面に柱穴を掘り、柱を建てて屋根を支えたものと考えられる。

集落の中央、南盛り土西側などから密集して見つかった。


「六本柱建物跡の保存ドーム」


1996年に、六本柱建物跡においては湿度を一定に保った保存ドームを作った。

柱の現物は他の場所に保存し、レプリカを代わりに元の場所に置くなどの措置を行った。


「南盛土」


竪穴建物や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物をすて、それが何度も繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになった。

土砂が水平に堆積しているので、整地されていたと考えられます。

中から大量の土器・石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物がたくさん出土している。


遺物の出土状況。


発掘調査区全景 1994年10月撮影 パンフレットより


三内丸山遺跡 1997年4月撮影 パンフレットより



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