イサーンの大地走行2000キロプラス チャンパ遺跡への招待 INDEX
ミーソン遺跡


雲間から聖山のマハーパルヴァタの特徴のある弓形の稜線が見えた

遺跡名
ミーソン遺跡 (My Son)
様式 ミーソン遺跡群 (My Son)
創建年代 4世紀~13世紀(7世紀以前の建物は木造のため残っていない)
場所 クアンアムダナン省ズイスエン県ズイタン村
入場料 60.000ドン
配置図 「Cham Art River Books」より
コメント
概要 ミーソン遺跡は残された碑文によると、4世紀から13世紀にまでの実に900年間に渡り、チャンパ王国の聖地として宗教建築が建設された。なお、「ミーソン」とは「美しい山」という意味がある。

聖域は2キロ四方を山々に囲まれ、南に聖山マハーパルヴァタ(その独特の形から、くちばし山、猫の歯山と呼ばれる)がそびえる盆地の中央に位置している。

最初に造られた祠堂は木造だったが、8~9世紀にかけてレンガ造りの祠堂が造られ、13世紀までに約70もの祠堂が造られたが、ベトナム戦争当時に米軍の爆撃で多くが破壊された。

現在残っているのは、A群からH群(美術史家のパルマンティエによる分類記号)に分類された遺跡群の約20の建物。

4~8世紀までの間チャンパ王国の王都はチャキュウに置かれ、チャキュウが政治の中心、貿易港ホイアンが経済の中心で、ここミーソンは聖地とされた。

このミーソン遺跡は1999年12月にUNESCOの世界遺産に登録された。
Vietnam
Date of Inscription: 1999
Criteria: (ii)(iii)
Duy Phu Commune, Duy Xuyen District, Quang Nam Province
N15 31 E108 34
Ref: 949
行き方 ホイアンから南西約45キロ。ホイアンから608号線、1号線、610号線と走る。所要時間は約60分。
一口メモ 四方を山々に囲まれ、鬱蒼とした森の中にあるミーソンは聖地というだけでなく、チャンパ歴代の王にとって王都チャキュウが侵略された時を想定した防御施設でもあったようだ。

C群

入口から道沿いに遺跡に入って、最初に目にするのがC群とB群だ。

10世紀にシヴァ神を祀るために再建された、舟形の屋根を持つC群の主祠堂C1。


C群の主祠堂C1内部。

迫り出し構造の屋蓋部分がよく分る。


C群の副祠堂C7は9世紀初頭、ホアライ様式からドンジュオン様式への過度期の建物。

内部の北を向いたヨニの先には、聖水を祠堂外に流すソーマスートラ(Somasutra)の穴が開いている。


宝物庫C3の連子窓。

クメールのものより小振りだ。


B群

B群の主祠堂のB1。

レンガ造りの多いチャンパ建築の中で珍しく砂岩の基壇を持っている。

この祠堂は数世紀にわたり何度も修理され、高さ24メートルの偉容を誇った。

現存する砂岩の基壇は11世紀ハリヴァルマンⅣ世により建造された。


B5は、ほぼ完全な形で残っている宝物庫だ。

基壇、身舎の上にカーブした舟形屋根を持ち、壁面を埋める花葉文様は10世紀の傑作だ。


宝物庫B5の壁には木造建築を意識した柱形が並ぶ。

破風装飾の下にはデヴァター(女神)像が彫られている。

すらりとした八頭身美人だ。


宝物庫B5の破風装飾。

2頭のたわむれる象がレンガに彫られている。

10世紀以降は、この部分が砂岩で造られる。


首のない神像。

ヨニの上に置かれている。


9~10世紀に制作された柱に彫られた男性像。

大きなイヤリングをし、たくさんのネックレスをしている。最初見たときは女性像だと思った。


D群

D2に納められた踊るシヴァ神像。

D2の建造時には、木造の屋根が架けられおり、現在ここから出土した彫刻類が納められた展示室となっている。


ヒンドゥー教の儀式でリンガに注ぐ聖水が北に向けて排水される。

その排水口のマカラ(摩竭魚・Makara)。


D1に納められた踊るシヴァ神像。

上記D2の踊るシヴァ神像よりも、シヴァ神を囲む人物像が秀逸だ。


川を渡って東側に行くと、A・G・E・F群がある。



A群
現在は崩れ去ったレンガの山になっているが、ここにはミーソンで一番高い28mを誇った華麗な装飾のA1の主祠堂があった。非常に残念な事に1969年に米軍の空爆で破壊された。かって、東南アジアの建造物の中で傑作のひとつといわれた祠堂は見る影も無い。

この静かで緑豊かな聖地に佇んで残骸を眺めていると、改めて戦争の悲惨さに胸を打たれる。無残!だ、あまりにも無残だ。


崩れ去ったA1の主祠堂(下図)には、ヨニが置かれていた。




ヨニに彫られたデヴァター像。


A群から、聖山のマハーパルヴァタを望む。

綺麗な蝶と崩れた遺跡との対比が…何か、悲しい。


A群の外れにA’1の祠堂が建っていた。

窓にはめ込まれた十字型の格子とその下のレリーフ、素晴らしい装飾の柱と纏わり付く植物。

崩壊の美に、思わずシビレた。


G群

A群から東に行くと、1157年にジャヤハリヴァルマン王に建造されたG群が丘の上にある。

残念ながら工事中で中に入れず。


E群

E群に行くと、首を取られた門衛(ドヴァラパーラ)像がポッンと寂しく立っていた。


チャム彫刻博物館に展示してある、ミソンE1から1903に発掘した祭壇基台装飾西正面。8~9世紀。

この素晴らしい祭壇基台一式が、博物館に収蔵されていなかったら、米軍の爆撃で消滅していただろう。

そう考えると、フランスのしたことを一方的に非難は出来ないな~あ。


E1祭壇西面中央のレリーフ「舞踏する人」は、文化・宗教表現として最高潮に達した傑作だ。

この生けるがごとき写実性、躍動感はインドのサンチー(Sanchi)美術の影響であり、均衡と調和は、グプタ(Gupta)美術から学んでいるといわれる。


F群

F群のF1の主祠堂。

屋根の下で支柱に支えられた姿は痛々しい。


H群

離れた場所にあるH群。

丘の上にあり、残された主祠堂H1の壁の一部が逆光に浮かんでいた。

この遺跡も米軍の空爆で破壊されたという…


INDEX